祈り、交わり、そして祝祷 エペソ6章18-2節



 パウロは、霊的な戦いに備えてどのように「堅く立つ」のかを、14-17節で武具の比喩を用いて説明したあと、18節では比喩を用いないで説明しています。18節には、祈りを意味する四つのことばが出て来ます。つまり、パウロは霊的な戦いにおいて堅く立つために必要なのは「祈り」であることを強調しているのです。もしもキリスト者が祈りのない生活をしているなら、それはとても無防備な状態にあるということです。 

 18節には「すべて(あらゆる)」と訳されるギリシア語「パース」が四回用いられています。一つ目は「あらゆる祈りと願いによって」です。二つの同義語を重ねています。二つ目は「あらゆる機会に」(直訳)です。パウロは、Ⅰテサロニケ5:17では「絶えず祈りなさい」と勧めています。三つ目は「あらゆる忍耐をもって」(直訳)です。パウロは祈りと忍耐を結びつけています。祈り続けるには根気強さが不可欠です(参 コロサイ4:2,ルカ18:1)。四つ目は「すべての聖徒のために」です。パウロは祈りの対象を広く見ています。このことは霊的な戦いは、個人的であるばかりでなく、共同体としての戦いであるという視点が見えてくるのではないでしょうか。私たちは互いに仲間のとりなしの祈りを必要としているということです。

 パウロは祈りに関して、「御霊によって祈りなさい」と勧めています(参 ユダ20節)。「御霊」はキリスト者のうちにいてくださる方であり、祈りを助けてくださる方です(ローマ8:26-27)。私たちは「御霊」によって祈りを導いていただく必要があります。もう一つは「目を覚ましていて、……祈りなさい」とも勧めています。「目を覚ましていて」とは、「油断せず注意を払いながら、警戒しながら」ということです。主イエスは「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」(マルコ14:38)と弟子たちに命じられました。ペテロも「身を慎み、目を覚ましていなさい」と命じた後、「あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(Ⅰペテロ5:8)と、その理由を述べています。

 「祈り」は、キリスト者にとっての「呼吸」や「神との交わり(会話)」にたとえられたりします。祈るように勧められているにもかかわらず、なぜ私たちは祈ることに困難を覚えるのでしょうか。二つの原因を挙げてみたいと思います。一つは、悪魔の巧妙な働きがあるということです。「祈らない」ということは、他の罪と比べたら、そんなにたいしたことではない、と悪魔は思わせようとしているということです。悪魔は、キリスト者の生活から祈りを閉め出すことができるなら、誘惑に対して無防備な状態にできることを知っているのです。

 もう一つは、私たちの「肉」という古い性質は、祈ることを喜ばないということです(参 ローマ8:7)。ある著名なキリスト者が「私の心は祈るとき神さまの方に行くことを嫌がり、神さまとともにあるとき、そこに留まることを嫌がるのです」と正直に告白しています。

 〈19-24節 交わり、祝祷については省略〉


 このメッセージは、2026.7.26のものです。なお、「エペソ人への手紙」の講解(計22回のメッセージ)のさらなる詳しい要約は長野聖書バプテスト教会説教集『教会を愛して生きる』”Living in Christ,Loving His Church” (B5,81頁)にまとめられています。