妻たちと夫たちの責任 エペソ5章22-33節
これから、キリストにある新しい生き方の「家庭編」とも言うべき箇所を三回にわたって見ていきます。初回は夫婦関係(5:22-33)、二回目は親子関係(6:1-4)、三回目は奴隷と主人との関係(6:5-9)です。 〈中略〉
妻たち、つまり一般の女性ではなく、結婚している妻たちの責任は、自分の夫に従うことです。22節の原語には「従いなさい」という動詞はなく(直訳「妻たちは、主に対するように、自分自身の夫に」)、動詞は21節の「従い合いなさい」から補われています。しかし、他の箇所では、妻に対して夫に従うことがはっきりと命じられています(参 コロサイ3:18、Ⅰペテロ3:1、5、テトス2:5)。
「主に従うように」とは、夫に従うあり方(自発性など)や、夫に従うことが主に従うことの一部であるという意味でしょう。そして、パウロは妻が従う根拠として、「キリストが教会のかしら」であるように、「夫は妻のかしら」であるからだと述べています(23節)。「キリストが教会のかしらである」という時の「かしら」(参 1:22、4:15)には、「権威」という意味が考えられるでしょう。しかし、その権威は、キリストの教会に対する愛に支えられた権威であって、そこには横暴さや抑圧といった意味はありません。妻が夫に従うとは、神が家庭の秩序の中で夫に与えられた権威を認めるということなのです。
妻が「従う」とは、まったく受け身でなければならない、意見を言ってはならない、という意味ではありません。賢明な妻は、夫が正しい判断をすることができるように助言することができます。また、夫に与えられた権威は絶対的なものではありません。妻の従順は「主に対するように」という範囲の中にあります。夫が罪を命じたり、神のみこころに反することを求めたりするなら、妻は人に従うよりも神に従わなければなりません(参 使徒5:29)。 〈中略〉
28節以降で、パウロは「夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません」と命じています。これは、キリストの自己犠牲の愛から基準を引き下げているのではありません。むしろ、夫たちにとってより身近で具体的な説明へと移っているのです。パウロは、レビ記19章18節の「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という教えを、妻を愛することに適用しているとも言えるでしょう。「自分自身のように」と「自分のからだのように」では表現は違いますが、どちらも、人が自分をいたわり、配慮して生きていることを前提として愛を命じています。つまり、パウロはここで、最も身近な隣人である妻を愛するように命じているのです。
三組に一組が離婚をする時代です。そのことは夫婦関係が口で言うほど簡単ではないことを物語っています。結婚は神が定められた制度です。神は結婚を生涯のものとして意図されました。互いを、神が結び合わせてくださった大切なパートナーとして認め合い(参 マタイ19:6)、結婚を定められたお方のガイドブックであるみことばに基づいて関係を築こうとするなら、罪の堕落によって損なわれた関係の回復の道が困難であるとしても(参 創世3:16)、神は必ず助けてくださるでしょう。
このメッセージは2026.6.28のものです。


