光の子として歩む エペソ5章3-14節
パウロは今回の箇所で、四つの動機づけとなることを述べています。そのうちの二つは肯定的な動機づけで、「聖徒にふさわしく」(3節)と「光の子どもとして歩みなさい」(8節)です。残りの二つは否定的な動機づけ(警告)で、「キリストと神との御国を受け継ぐことができません」(5節)と「神の怒りは不従順の子らに下る」(6節)です。
まず、「聖徒にふさわしい」生き方とは何でしょうか。パウロは3節に三つ、4節にも三つを挙げ、それらを避けるように勧めています。「聖徒」とは、神のために取り分けられた(聖別された)者という意味で、すべてのキリスト者を指しています(1:1)。すでに「聖い」者だから聖徒と呼ばれているのではありません。神のために聖別された者なので、それにふさわしい生き方が勧められているのです。
パウロが挙げる、聖徒にふさわしくないことの一つ目は「淫らな行い」です。これは結婚関係以外の性的な不道徳を指す広い意味のことばです。性そのものは恥ずべきものでも汚れたものでもありません。しかし、神は結婚という絆の中で性を祝福しておられるのです。神は私たちから喜びを奪おうとしているのでしょうか。そうではありません。性を結婚に限定することによって家庭を守ろうとしておられるのです。
二つ目は「汚れ」です。先の「淫らな行い」と一緒に出てくることが多く、主に性的な罪を指していますが、「どんな」という言葉が付けられていることから、性に限定されていないことが分かります。
三つ目は「貪り」です。もっと欲しいという飽くなき欲望のことで、他の箇所では「貪欲」と訳されています(マルコ7:22、ルカ12:15など)。5節では、「貪る者」について「偶像礼拝者」であると強いことばで説明されています。神が与えてくださるもので満足できず、もっと欲しいという欲望が神の座を占めることになるからでしょう(参 ピリピ3:19)。神ではなく物に信頼し、そこに望みを置くなら、それは偶像礼拝なのです。
4節には、さらに三つのふさわしくないことが挙げられています。「わいせつなこと」、「愚かなおしゃべり」、「下品な冗談」です。これらのことばは新約聖書ではここにしか出てこないものであり、主にことばに関係するものです。パウロは、これらに代わるものとして「感謝」を勧めています。なぜ「聖さ」ではなく「感謝」なのでしょうか。おそらく、神が与えてくださる恵みに対する感謝の欠如を念頭に置いているからでしょう。パウロは、「感謝」をキリスト者の特徴の一つとして、他の手紙でも繰り返し勧めています(コロサイ3:15、Ⅰテサロニケ5:18など)。
〈中略〉
パウロは、神の権威を認めず、不従順によって特徴づけられた歩みを続けている者たちの罪に加担しないように命じた後(7節)、読者たちの回心による変化を「以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました」と表現しています(8節)。キリスト者は、光である主のうちにある者なので、「光」と言われているのです。そして、「光の子どもとして歩みなさい」と命じられています。「~の子ども」とは、「~によって特徴づけられている者たち」というヘブル的な表現です。これもまた、新しい生き方の重要な動機づけとなることばです。
〈以下省略〉
このメッセージは2026.6.14のものです。


