新しい生き方(3) エペソ4章31節ー5章2節

 

 パウロが勧める新しい生き方の続きを見ていきましょう。五つ目は「悪意を捨て、互いに赦し合う」ということです(31、32節)。まず否定的な勧告は、「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい」です。

 最初の「無慈悲」は、他では「苦み」(ローマ3:14)と訳されていて、共同訳では「恨み」、フランシスコ会訳では「苦々しい思い」と訳されています。次の「憤り」と「怒り」は似たことばですが、「憤り」は怒りの爆発であり、「怒り」は心に抱き続ける怒りです。次の「怒号」とは、大声で叫ぶことで、共同訳では「わめき」と訳されています。「ののしり」は、中傷や陰口、罵倒などを指します。最後の「悪意」(カキア)は、人に対して悪を望み、企てることです(Ⅰペテロ2:1)。「悪意」は先の五つを総括するものであり、「一切の(すべての)」ということばから、ここに挙げることができなかったものを含めて、「すべて捨て去りなさい」とパウロは命じています。

 肯定的な勧告は、「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい」です。「親切」は、他の箇所では「あわれみ深い」(ルカ6:35)や「いつくしみ深い」(Ⅰペテロ2:3)と訳されています。次の「優しい心」は、思いやりが深いことです(Ⅰペテロ3:8)。最後の「赦す」(カリゾマイ)は、通常用いられる動詞「赦す」(アフィエーミ)とは異なり、「恵みを施す(与える)」という意味のことばをパウロは用いています。「互いに」という意味のことばが二回(原語では異なることばだが)用いられていて、一方的ではなく相互的な勧告であることが分かります。

 互いに赦し合う動機づけ(理由や模範)となることばは、「神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」に見出すことができます。神の赦しについては、すでに語られていました(1:7)。主が話された「無慈悲な家来のたとえ」(マタイ18:21-35)には、王からあわれみによって莫大な負債を赦されたにもかかわらず、仲間の些細な負債を赦そうとしなかった家来が登場します。その家来は、罪という莫大な負債を神から赦されたにもかかわらず、仲間を赦そうとしないクリスチャンの姿を示しています。主イエスは、赦されることと赦すことを切り離さないように私たちに警告しています(マタイ6:14-15)。神は、クリスチャンたちが恵みとして与えられたものを、今度は他の人に恵みとして差し出すことを願っておられるのです。


 パウロが勧める新しい生き方の六つ目は、「愛のうちに歩」むということです(5:1-2)。ここでは否定的な勧告はありません。まず、肯定的な勧告の一つは、「神に倣う者となりなさい」です。とても大胆な命令ですが、神に倣うとはどのような意味でしょうか。文脈から言えることは、神が赦してくださったように赦すことであり、2節の「愛のうちに歩む」(生きる)ということです。そして、その動機づけのことばは、「愛されている子どもらしく」です。かつての私たちは、その罪のゆえに「御怒りを受けるべき子ら」(2:3)でした。しかし、神はキリストを信じる者をご自身の子どもとし(ガラテヤ3:26)、ご自身の家族の一人に迎え、愛を注いでくださっています(エペソ2:19、ローマ5:5)。そのような子どもである私たちが、父なる神に倣って生きることはふさわしいことなのです。   ー 以下省略 ー


           このメッセージは2026.6.7のものです。