新しい生き方(1) エペソ4章25-27節
パウロは、回心前の古い生き方から新しい生き方への転換を、「古い人を、……脱ぎ捨て」「新しい人を着る」という表現で説明しました。そして、「ですから」(25節)と続けて、新しく生きるとは具体的にどのような意味なのかを、4章25節から5章2節までの中で六つ挙げています。
パウロが勧める新しい生き方の一つ目は、「真実を語る」ことです。まずパウロは、「偽りを捨て」という勧告から始めますが、「捨て」と訳された動詞は、「脱ぎ捨てる」(22節)と同じことばです。また、「真実を語りなさい」の「真実」という名詞も、24節の「真理」と同じことばです。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るとは、うそを捨て、真実を語るということです。
「それぞれ」とは「一人ひとり」(4:7と同語)を意味し、「隣人に対して」とは、同じ「からだ」の他の部分である兄弟姉妹に対してということです。神の民が隣人に対して真実を語ることを求めるこの勧告は、ゼカリヤ8章16節にも見出すことができます。
では、パウロが「真実を語りなさい」と命じる動機づけは何でしょうか。読者たちが真理のお方であるキリストを学んだことを理由として挙げることもできたでしょう(20節)。しかし、ここでパウロが挙げている理由は、「私たちは互いに、からだの一部分」だからです。うそによって確かな信頼関係を築くことはできません。真実は交わりの土台となるものだからです。
「真実を語りなさい」とあるので、本当のことなら何を言ってもよいということではありません。愛のある配慮が必要です。同じからだの部分同士がことばによって傷つけ合っていたなら、成長どころか、健康さえ維持することはできないでしょう。
パウロが勧める新しい生き方の二つ目は、「怒りを制御する」ことです。「怒っても、罪を犯してはなりません」(26節)は、直訳すると「怒れ。そして罪を犯すな」です。これを二つの命令として理解することもできます。しかし、ここでのパウロの主眼は怒ることを勧めることではなく、怒りが罪へと発展する危険を警告することにあります。そのため、「怒っても(正しい怒りがあることを前提としつつも)、罪を犯してはなりません」と訳されているのは適切でしょう。
聖書は、怒ること自体がすべて罪だとは教えていません。新約聖書には、主イエスが怒られた場面が記されています(マルコ3:5、10:14、ヨハネ2:13以下)。しかし私たちの怒りの多くは利己的なものであり、容易に罪へと発展しやすいものです。
仮に正しい怒りであったとしても、その怒りを抱え込み続けることは危険です。ですからパウロは、「憤ったままで日が暮れるようであってはいけません」と命じています。この表現は、「怒りを長引かせるな」ということであり、「日が沈むまでは怒っていてもよい」という意味ではありません。怒りの残り火をくすぶらせているなら、やがて大きな火となって人間関係を焼き尽くしてしまうことになるからです。 パウロが示す怒りを制御する動機づけは、「悪魔に機会を与えないようにしなさい」(27節)ということばから読み取ることができます。「機会」と訳されている「トポス」は、本来「場所」を意味することばです。怒りが罪とならないよう速やかに対処すべき理由は、悪魔に働く場所を与え、キリストのからだに損害を与えることのないためなのです。 ー 以下省略 ー
このメッセージ2026.5.24のものです。


