二つの模範と再臨の希望 ピリピ3章15-21節
今回の箇所は、三つに分けることができます。15-17節は「倣うべき模範」、18-19節は「避けるべき模範」、そして、20-21節は「再臨の希望」です。
パウロは、今をどのように生きるかを「競走」の比喩を用いて説明したあと、「大人である人はみな、このように考えましょう」(15節)と勧めています。ここで言う「大人である人」とは、霊的に成熟した人のことです。「このように」とは、「復活」(すなわち栄化、救いの完成)という最終目標を見据え、それを目指して走るということです(参 11,21節)。
パウロは、ピリピの信者たちに自分と同じ考え方をもって欲しいと願っていますが、まだそのように考えることができない人がいることもよく理解しています。そして、神が同じような思いへと導いてくださることに信頼を置いています。そして、パウロは、「いずれにせよ」(共同訳)、「私たちは到達したところを基準にして進むべきです」(16節)と勧めています。「到達したところ」とは、それぞれの霊的な成長段階を指します。自分と他の人を比べて優越感や劣等感を持つことがないようにということでしょう。「進むべきです」と訳されている言葉(ストイケオー)は、軍隊用語としても用いられ、「兵士が隊列を組んで進む」という意味でも使われました。信仰生活は個人的に進むだけではなく、互いの霊的な成長段階の違いを認め合いながらも、ともに連携して、支え合いながら進んでいくということでもあるのです。
パウロは、「兄弟たち」と改めて愛情の思いを込めて呼びかけ、二つのことを命じています(18-19節)。一つは「私に倣う者となってください」です(17節 参 4:9)。パウロは他の手紙でも同様のことを命じています(参 Ⅰコリント4:16,Ⅱテサロニケ3:7,9)。彼は高慢になっているのでしょうか。そうではありません。パウロは12節で「私は、・・・すでに完全にされているのでもありません」と言っています。パウロは、キリストに倣っている者なので(Ⅰコリント11:1)、そのように命じることができたのです。パウロが、自分だけが倣うべき「手本」(共同訳「模範」)だと思っているわけではないことは、二つ目の「私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください」(17節)との命令からもわかります。パウロは、ピリピの信者たちが霊的に成熟した人々の生活から、その生き方を学ぶ姿勢をもってほしいと願っているのです。
18-19節には、避けるべき人々が出てきます。パウロは彼らのことを「十字架の敵として歩んでいる」と表現しています。「十字架」は、神が罪人の救いのために備えられた手段です。それを拒む人々はすべて十字架の敵と言えるでしょう。また「十字架」は、救いの恵みにあずかった者が担うべき苦しみを象徴しています(参 マルコ8:34)。快適さを求めて生きる者はそれを嫌うことでしょう。19節の四つの特徴から、彼らは真のキリスト者ではないことは明らかです。パウロの感情を示す「涙ながらに」という言葉から、パウロが彼らに持っているのは敵意ではなく、むしろ愛情に基づく悲しみです。かつての自分が十字架の敵として歩んでいたことを思い出していたのかもしれません。彼らが何者かを特定することは難しいですが、おそらく名ばかりのキリスト者たちのことではないかと考えられます。
私たちは、今をどのように生きるかを言葉から学ぶだけでなく、倣うべき良き模範からも避けるべき悪い模範からも学ぶ必要があるのです。
このメッセージは2025.10.19のものです。


