キリストを知る ピリピ3章7-14節



 パウロは、回心前の自分がどのようなものを誇りとしていたかを語ったあと(5–6節)、回心後の自分の価値観が逆転してしまったことを説明し(7–8b節)、その価値観に基づいて今後をどのように生きようとしているのかを、競走の比喩を用いて明らかにしています(8c–14節)。

 パウロは、キリストに出会う前と出会った後の価値観が大きく転換したことを、会計の帳簿の比喩を用いて説明しています。かつて「得」(利益)に数えていたもの(5–6節)を、「損」(損失)だと思うようになったと述べています。そのことを8節でさらに説明し、「すべて」(5–6節以外のものも)を「損」(損失)だと思っていることを強調しています。

 パウロの価値観が大きく変わった原因は、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」(8節)です。パウロは、ダマスコ途上で復活のキリストと出会い(使徒9章)、教会を激しく迫害していた者が赦されただけでなく、福音を伝えるという尊い使命をも委ねられていることが分かったとき(参 Ⅰテモテ1:13–16、ガラテヤ2:20)、かつて誇りだと思っていたものが、価値のないものになってしまったのです。パウロは「キリストのゆえにすべてを失いましたが」(8節)と述べています。もし彼が律法学者として歩んでいたなら、それまで築き上げてきた地位や名誉を失うことはなかったでしょうし、幾多の苦しみを経験することもなかったでしょう(参 Ⅱコリント11:23–)。しかし、パウロはかつて誇りとしていたものは「ちりあくた」(スキュバラ:KJV “dung”)だとさえ言うのです。

 価値観の転換によって、パウロは今後どのように生きようとしているのでしょうか。その目的(「〜ためです」)を示すのが、「私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです」という言葉です。この意味を正しく理解するためには、「すでに(already)」と「いまだ(not yet)」という二つの面があることを知る必要があります。パウロは、キリストを知っていて、すでに「キリストを得て、キリストにある者と認められている」者です。現在の視点では「すでに」と言えますが、将来の視点から言うならば、それは「いまだ」なのです。ここでパウロが言おうとしているのは、終わりの日に、キリストを得て、キリストにある者と認められるということなのです。

 パウロはすでにキリストを知っています。しかし、さらにキリストを深く知りたいとも願っています(10節)。ここにも「すでに」と「いまだ」という面を見ることができます。新約聖書を読めば、キリストがどのようなお方かを情報として知ることはできます。しかし、キリストを人格的にさらに知るためには、日々の歩みと経験を通して、主とともに生きることが求められます。人との関係が時間とともに深まるように、キリストとの関係も歩みの中で深められていくのです。キリストをさらに知ることを通して、私たちはよりキリストに信頼を置くことを体験することになるでしょう。そして、それはキリストに似た者へと変えられていくプロセス(聖化)へと進ませることになるのです。約束されている「栄化」(11節「復活」)の希望をしっかりと見据えて、聖化の道(10節)を「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マルコ8:34)と招いてくださっている方とともに歩んでいきましょう。


         このメッセージは2025.10.12のものです。