にせ教師への警告とむなしい誇り ピリピ3章1-6節

 今回の箇所は、にせ教師への警告(1-3節)と、パウロの回心前の人間的な誇り(4-6節)とに分けることができます。

   - にせ教師への警告については省略 –

 パウロは4–6節以降において、にせ教師たちが人間的なものに頼っているので、彼らと同じ土俵においても自分の方がはるかに優位であることを示すために、七つの項目を挙げています。

 一つ目は、「生まれて八日目に割礼を受け」(5節)です。割礼から始めるのは、にせ教師たちとの論争の中心が割礼であったからです。割礼は生まれて八日目に受けることが命じられていました(創世17:12)。パウロはその八日目に割礼を受けた者であったのです。

 二つ目は「イスラエル民族」です。「イスラエル」は、ヤコブが神から与えられた名前です(創世32:22–32)。その名前はヤコブの個人名としてだけでなく、神の民としての呼称としても定着していきます。パウロは、アブラハム、イサク、ヤコブの血統を受け継ぐ神の民であったのです。

 三つ目は「ベニヤミン族の出身」です。ヤコブと最愛の妻ラケルの間に誕生した十二番目の子が「ベニヤミン」です(創世35:18)。ベニヤミン族は、イスラエルの初代の王サウル(Ⅰサムエル9:1–2)を輩出した誇り高き部族です。

 四つ目は「ヘブル人の中のヘブル人」です。新約に「ヘブル人(ヘブライオス)」という語が使われているのは、他に二回のみです(使徒6:1、Ⅱコリント11:22)。そこから、ヘブル語を話し、ユダヤ人としての文化的・宗教的伝統を保っていた者という意味で使われていると思われます。

 五つ目は「律法についてはパリサイ人」です(参 使徒22:3–5、26:5)。福音書に登場する「パリサイ人」のイメージは決して好ましいものではありませんが、当時のユダヤ社会では、律法遵守(モーセの律法だけでなく、代々受け継がれた口伝律法[ハラカー]にも及ぶ)への熱心や道徳的純粋さから、一般民衆から尊敬されていました。パウロは尊敬されていた律法学者ガマリエルの門下生であり、次世代を担う指導者と目されていた人物でした。

 六つ目は「その熱心については教会を迫害したほどであり」(6節)です(参 ガラテヤ1:13–14)。彼からすると異端とも言うべきキリスト教を根絶やしにすることは神に仕えることだと思っていたのです。

 七つ目は「律法による義については非難されるところがない者」です(参 ルカ1:6)。これは回心前のパウロの自己理解ですが、彼は自分には全く罪がないと考えていたわけではありません。律法は、どのように生きるべきかを規定し、罪に対してどのように対処(犠牲)すべきかを教えていました。パウロはその律法の基準に照らして、模範的な生活をしていたと自負していたのです。しかし彼はキリストとの出会いを通して、律法を守れない自分が神の呪いを受けるべき者であることを知り、キリストを信じることによって義とされることを信じるように変えられたのです。

 人間的な誇り、たとえば健康、富、名誉、成功などは、それ自体が悪いわけではありません。しかし、それらに信頼を置き、よりどころとするなら、私たちはキリストを信頼することから遠ざかり、傲慢になってしまうでしょう。パウロは「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)と命じています。今、私たちは何を誇りとしているでしょうか。



           このメッセージは2025.10.5のものです。