コルネリウス 使徒10章1-48節

 「コルネリウス」は、「カイサリア」(地中海沿岸の港湾都市)に駐留する「イタリア隊」(おそらく正規軍ではなく、補助軍)の「百人隊長」でした。彼はユダヤ教に正式に改宗した「改宗者(プロセライト)」ではありませんでしたが(参 11:3)、ユダヤ人たちが信じる唯一の神を恐れ敬う異邦人でした。その信仰は――「施し」や「祈り」(2, 4, 22節。マタイ6章も参照)――によって表れており、しかもその影響は彼の家族や部下にまで及んでいました。

 この10章を読むときに、異邦人であるコルネリウスたちがどのように救いに至ったのかを見ることができます。神が、コルネリウスにもペテロにも導きを与えて、両者を出会わせておられることがわかります。この10章から私達はどのようなことを学ぶことができるでしょうか。

 第一に、コルネリウスの回心は異邦人宣教への大きな扉を開く転換点となったということです。もともと神の救いのご計画には異邦人の救いが含まれていました(マタイ28:19,使徒1:8)。しかし、初期のユダヤ人クリスチャンたちは、そのことを十分には理解していませんでした。ところが、ペテロの語る福音を聞いたコルネリウスたちに聖霊が下ったことを通して、彼らは異邦人も信仰によって救われることに目が開かれることになります(44-45節、11:15-18、15:8-11)。その結果、福音はエルサレムから地中海世界の異邦人へと、大きく広がっていくことになったのです。

 第二に、神はコルネリウスの救いのために、ペテロの根強い民族的偏見を打ち砕く必要があったということです。ペテロは、三回繰り返された幻を見ても、その意味が分からず困惑していました(17節)。しかし聖霊の語りかけと(19-20節)、コルネリウスの使者たちを通して、神が異邦人との交わりを拒絶してはならないこと示していると悟りました(28節)。私たちの心の中にも、気づかないうちに根を張っている偏見があるのではないでしょうか――外国人、貧しい人、障がいや病を抱える方々などに対する見えない壁です。神が私たちを御用のために用いられるとき、そのような偏見が砕かれる必要があるのです。


 第三に、コルネリウスがペテロの語る言葉にどのように向き合おうとしているか、ということです。コルネリウスは、神の御使いから「ヤッファ」(カイサリアの南約50キロ)に滞在しているペテロを招いて、彼のことばを聞くように命じられたとき、すぐに使者を遣わしました。そしてペテロが到着したときには、彼は「親族や親しい友人たち」を集めて待っていました(24節)。神の言葉(11:14「救うことば」)に対する期待のほどがうかがえます。彼のペテロに対する態度(「ひれ伏し」)には、行き過ぎた面があったので(26節)、ペテロはそれを正さなければなりませんでしたが、神の使者に対する敬意を読み取ることができます。そして、33節の「今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております」の言葉からは、神のことばに心を開いて、神のことばを待ち望んでいる謙虚な姿勢を見ることができます。

 主イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)と言われました。神のことばは、私たちの人生にとって欠かすことのできないいのちの糧です。私たちは日々、どのような心で神のことばに向き合っているでしょうか。コルネリウスのように、謙虚に、熱心に、心を開いて聞こうとしているでしょうか。

           このメッセージは2025.6.15のものです。