欺きによって手に入れた祝福 創世記27章1-46節
この27章は六つの場面に分けて読むことできるでしょう。第一の場面(1-4節)では、視力が衰え、死期が近いと感じたイサクが、お気に入りの息子エサウに対し、狩りに出かけおいしい料理を作ってくるよう命じます。そして、その後で彼を祝福しようとします。第二の場面(5-17節)では、イサクがしようとすることを聞いたリベカが、息子ヤコブにエサウの祝福を奪う策略を授けます。第三の場面(18-29節)では、ヤコブが兄エサウになりすまして、イサクから祝福を得ることに成功します。第四の場面(30-40節)では、イサクとエサウが騙されたことを知り、イサクは戦慄し、エサウは泣き叫びながら、自分への祝福を懇願し続けます(参 ヘブル12:17)。第五の場面(41-45節)では、リベカがエサウの殺意からヤコブを守るために、ハランにいる自分の兄ラバンのもとへ避難するように指示します。第六の場面(46節)では、リベカは本当の理由を伏せ、「エサウの妻たちのような女性とヤコブを結婚させたくない」とイサクに語り、ヤコブのハラン行きを納得させようとします。
結果的には、母リベカとヤコブが「欺き」によって祝福を手に入れることに成功しているのを見ます。私たちはこの章からどのようなことを見ることができるでしょうか。
第一に、欺きの原因は、夫婦の不一致と不信仰にあったということです。イサクとリベカは、それぞれ自分のお気に入りの息子に祝福を継承させたいと願っています。二人の間にしっかりとした意思の疎通があったなら(25:28)、家族を分断するような出来事は避けられたことでしょう。また、祝福の継承についての二人の考えには不信仰があったと考えられます。まず、イサクはおそらく、神が弟のヤコブを選ばれたこと(25:23)を知っていたはずです。しかし、神の御心に反しても自分の願いを遂げたかったのです。一方リベカは、神の選びがヤコブにあることを信じていましたが、そのご計画の実現を、神にゆだねて待つことができなかったのです。
第二に、神は欺き(罪)を用いてご自身の計画を実現しておられるということです。神は罪を容認されるお方ではありません。しかし、罪をも用いてご自身の計画を実現されることがあります。そのことは、私たちの主イエスの十字架の死からも見ることができます(使徒4:27-28)。神は私たちの思いをはるかに超えて、ご自身の計画を実現することができるお方です(参 箴言19:21)。
第三に、リベカとヤコブは、その欺きの代償を払うことになったということです。二人は目的のものを手に入れました。しかし、神は二人の欺きを認められたわけではありません。リベカは、愛する息子を自分の兄のもとへ一時的に避難させ、あとで呼び戻したいと考えていました(45節)。しかし、リベカは二度とヤコブと会うことはなかったと思われます。ヤコブにしても、ハランで20年の歳月を過ごすことになりますが、叔父ラバンに何度も欺かれ(参 29:25,31:41)、後には自分の息子たちからも欺かれることになります(37章)。欺いた者は、欺かれた者の痛みを深く経験することになります。神は憐れみ深く罪を赦して下さるお方ですが、ときに、私たちに蒔いたものを刈り取らせることによって訓練されることがあることを忘れてはならないでしょう(参ガラテヤ6:7、ヘブル12:6)。
このメッセージは2025.6.1のものです。