双子の誕生と取引 創世記25章19-34節
これから『ヤコブの生涯』(25-35章)を見ていきましょう。
25章20-26節には、イサクがリベカと結婚してから20年の間、子どもが与えられなかったこと、そして双子(エサウとヤコブ)が誕生するまでの経緯が簡単に記されています。神は、アブラハムにもその子イサクにも、子孫の繁栄を約束されていましたが、リベカもまたサラと同様に「不妊」であり、子を持てずにいました。
この困難に対してイサクが取った行動は、「祈る」ことでした。イサクは主に信頼し、忍耐強く祈り続け、その祈りはついに答えられたのです。
妻リベカの妊娠中、彼女は大きな不安に襲われました。彼女のお腹の中で子どもたちがまるで争っているかのように「ぶつかり合」ったからです(22節)。原語では、「激しく衝突する」「打ち砕く」という強い意味のことばです。彼女が不安や恐れの中でしたことは、「主のみこころを求め」ることでした。イサクもリベカも問題に対処するために、まず主を仰ぎ見たことがわかります。
主は彼女に答えて、誕生する子たちから「二つの国」「二つの国民」が出てくることを明らかにし、「兄が弟に仕える」ことになると、そのご計画を明らかにされました(23節)。
神の選びは、兄エサウではなく、弟ヤコブにありました。なぜヤコブが選ばれたのでしょうか。選ばれるにふさわしい人格を備えていたからでしょうか。そうではありません。ローマ9章11,12節には、生まれる前からの「選びによる神のご計画」があったことが明らかにされています。私たちは、この後のエサウの言動を通して、彼が選ばれなかったことを見るのです。
私たちの救いにおいても同様のことが言えます。私たちが選ばれのたのは、それにふさわしい何かを備えていたからではありません。ただ神の恵みと主権による選びによるのです。神の選びを考えるなら、私たちはだれも誇ることはできません(参 Ⅰコリント1:16-29,エペソ1:5)。神に感謝し、神をほめたたえるばかりです。
27-28節には、双子が対照的な性格に育ち、両親がそれぞれのお気に入りの息子を愛したことが記されています。偏愛は、不公平感を与え、子どもたち同士の対立を引き起こすことになります(参 創世37:4)。夫婦の間に愛と一致がないなら、その悪影響を被るのは子どもたちなのです。
29-34節には、「長子の権利」(31,32,33,24節)が、どのようにして弟ヤコブのものとなったのか、その経緯が記されています。エサウは空腹のあまり、目の前の食事と引き換えに、自らの「長子の権利」を売ってしまいました。この行動は、一時的なもののために永続的な祝福を手放すという、愚かな選択でした。34節の連続する四つの動詞(直訳「食べた」「飲んだ」「立ち上がった」「去った」)は、長子の権利に対するエサウの無関心さを強調しています。創世記の記者は「こうしてエサウは長子の権利を侮った」と評しています(34節)。「侮る」とは、「軽視する」「価値を軽く見積もる」という意味です。ヘブル12章16節には、「だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい」と警告があります。私たちの人生のさまざまな選択において、何に価値をおいて選択するのかが問われています。一時的な利益や成功のために、神の豊かな祝福を手放そうとしていないでしょうか。
このメッセージは2025.5.18のものです。