エマオへの道 ルカ24章13-31節



 復活された主は、さまざまな場面でご自身を現されました(Ⅰコリント15:5–8、使徒1:3)。その中でも特に印象的なのが、エマオへ向かう二人の弟子に現れた出来事です。これはルカだけが記す特別なエピソードです。二人のうち一人は「クレオパ」(18節)、もう一人についてはいろいろな推測がなされていますが、明らかにされていません。彼らはエルサレムから約11キロ離れたエマオへ向かう道を歩きながら、最近起こった出来事を語り合っていました。そこへ一人の見知らぬ人 – 復活の主ご自身 – が近づきますが、彼らにはそれが主とはわかりませんでした。やがて、彼らの目が開かれ、復活の主を確信するに至ります(31節)。今日はこの「エマオへの道」から、私たち自身の歩みを重ねて考えてみましょう。

 第一に、「エマオへの道」は「失望と困惑の道」です。二人の弟子は、希望を抱いていたイエスが殺されたことで深い失望に沈んでいました(19-21節)。また、墓が空だったという知らせも、復活の確信にはつながらず、混乱していました(22-24節)。

 私たちの人生にも、思い通りにいかず、失望や困惑を覚える時があります。主は、困難があることを前もって語られ(ヨハネ16:33)、パウロもそれを教えています(Ⅰコリント10:13、使徒14:22)。失望と困惑の道は、誰もが一度は通る道なのです。

 第二に、「エマオへの道」は「希望と確信に至る道」です。主はすぐにはご自身を明かさず、旧約聖書から、メシアが苦しみを経て栄光に入ることを解き明かされました(26–27節)。弟子たちはみことばを通して、神のご計画を少しずつ理解していきます。そして食事のとき、彼らの目が開かれ、主が共におられたことを知るのです。その後も、みことばによって与えられた希望と確信は心に残りました。

 私たちもみことばの光に照らして歩むとき(参 詩篇119:130)、神のご計画を悟り、希望と確信を得ることができるのです(参 ローマ8:28、Ⅱコリント12:7–10)。主が苦しみを通して栄光に入られたように、私たちもその道を歩むことになるのです(参 ローマ8:17–18、Ⅱコリント4:17)。

 第三に、「エマオへの道」は「復活の主がともに歩んでくださる道」です。弟子たちは主がともに歩まれていたことに、すぐには気づきませんでした。しかし確かに、主は彼らとともにおられたのです。

 私たちも孤独を感じることがありますが、主は「世の終わりまで、いつもあなたがたとともに」(マタイ28:20)、「決してあなたを見話さず、見捨てない」(ヘブル13:5)と約束しておられます。名も記されていないもう一人の弟子 – それは、私たち自身を指していると考えて読むこともできるのではないでしょうか。

 失望や困惑の道も、希望と確信に至る道も、そして主とともに歩む道も、すべて「エマオへの道」に含まれています。私たちもまた、復活の主とともに歩み続けていきましょう。

               このメッセージは2025.4.20のものです。