古い人を脱ぎ捨てた コロサイ3章1-11節
クリスチャンとノンクリスチャンの違いは、「いのち」(3節)を持っているか、いないかです。もちろん、ここで言う「いのち」とは肉体のいのちではなく、霊的ないのちのことを指しています。この霊的ないのちは、キリストを信じた者に与えられる神の賜物です(参 ヨハネ3:36,ローマ6:23)。
1-4節には、「キリストとともに」ということばが繰り返されています。パウロは、キリストを信じた者がキリストとともに「死んで」(3節、2:20)、「キリストとともによみがえらされ」(1節、2:12)た者であることを強調しています。さらに、与えられたいのちは「キリストとともに神のうちに隠されてい」(3節)て、キリストの再臨の時に「キリストとともに栄光のうちに現れ」る(4節)と約束しています(参 Ⅰヨハネ3:2)。
パウロは、キリストを信じた者とキリストとの結合に焦点を当て、それを根拠に「上にあるものを求めなさい」(1節)「上にあるものを思いなさい」(2節)と命じています。パウロは、神のいのちにあずかり神との交わりの中に導き入れられた者たちが、神の御心にかなった価値観や目的に従って生きるように、その転換を求めているのです。
パウロは、神のいのちにあずかり新しく創造された者(参 Ⅱコリント5:17)の、古い生き方から新しい生き方への転換を、「古い人」を「脱ぎ捨てて」、「新しい人を着たのです」と、衣服を着替えるイメージを用いて説明しています(9-10節)。パウロは、古い人の生き方を象徴する罪のリストを、5節では五つ、そして8節でも五つあげて、それぞれを「殺してしてしまいなさい」(参 ローマ8:13)、「捨てなさい」と命じています(参 ローマ6:12-13)。
5節にあげられているリストは、性的な罪に焦点を当てていることがわかります。最後の「貪欲」は、すでに与えられているもので満足せず、もっと欲しいと願う心です。パウロは「貪欲は偶像礼拝」だと言っています。それは、神にではなく物に望みを置き、それに信頼することだからです(参 Ⅰテモテ6:17,マタイ6:25)。また、パウロは、罪に対する「神の怒り」についても警告しています(6節)。
パウロは、コロサイのクリスチャンたちに罪に支配されていた「以前」の生活を思い起こさせ、「今は」と、改めて8節でも五つのリストをあげています。こちらでは言葉に関する罪に焦点が当てられています。主は「人の口は、心に満ちていることを話す」と言われました(ルカ6:45)。もし心の中に「怒り、憤り、悪意」が満ちているなら、それは「ののしり」「恥ずべきことば」となって口から出て来るでしょう。9節では、さらにもう一つ「互いに偽りを言ってはいけません」があげられています。嘘は信頼関係を壊します。
パウロは、クリスチャン人生の大きな転換を、衣服を着替えることにたとえています。つまり、クリスチャンとは、汚れてボロボロになったひどい悪臭を放った服(「古い人」)の上に、新しい服(「新しい人」)を重ね着した者ではなく、古い服を完全に脱ぎ捨て、新しい服を着た者だということです。
新しい人は、堕落によって損なわれた「造られた方のかたち」(10節 参 ローマ8:29「御子のかたち」)を回復していく(キリストに似た者となっていく)過程へと進んでいくことになります。「新しくされ続け」(参 Ⅱコリント4:16)とあるように、その過程はまだ始まったばかりで、完成にはほど遠いかもしれません。その過程は私たちの力によるものではありません。私たちのうちにいて、私たちを変えようと働いておられる御霊によるのです。ですから、パウロは「御霊によって歩みなさい」と命じているのです(ガラテヤ5:16-,参 Ⅱコリント3:18)。
このメッセージは2025.3.16のものです。