偽りの教えに対する警告 コロサイ2章16-23節
パウロは、8節bで「偽りの教え」を三つの表現で説明していましたが、16-23節では、それをさらに詳しく説明しています。8節の「だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい」を第一の警告とするなら、第二の警告は「だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません」(16節)、第三の警告は「あなたがたを断罪することがあってはなりません」(18節)ということになるでしょう。ここで使われている「批判する」や「断罪する」と訳されている言葉は、ほぼ「さばく」という意味の同義語と考えていいでしょう。パウロはコロサイのクリスチャンたちに対して、偽教師たちをあなたがたをさばく立場に置かないよう、繰り返し警告していることがわかります。
コロサイの教会に影響を及ぼそうしていた「偽りの教え」については、残念ながら情報が不足しているためによく分からない点があります。ただ16節の「食べ物や飲み物」、「祭りや新月や安息日」といったことばから、ユダヤ教的な要素をもったものであることがわかります。それが、律法の遵守をどの程度求めていたのかは不明です。
パウロは旧約聖書で命じられている律法は「影」であり(参 ヘブル10:1)、「本体」(共同訳「実体」)であるキリストの到来によって、もはやそれに縛られることがないことを説明しています。何を食べ飲むか、ある特定の日を守るか守らないか、私たちは古い秩序に縛られる必要はないのです(参Ⅰテモテ4:3,マルコ7:19,ローマ14:5-6)。
パウロは「偽りの教え」を広めようとしていた教師について「自己卑下」(18,23節)や「御使い礼拝」(「御使い」を礼拝の対象としているのではなく、「御使いがささげている礼拝」と理解する人もいる)を喜んでいる者と呼んでいます。そして、彼らが肉の思いによって、理由もなく高慢になって、教会の「かしら」(19節、1:18)であるキリストに「しっかり結びつくことをしません」と、厳しく指摘しています。
教会の成長は、「かしらにしっかり結びつくこと」によって可能です。また「からだ全体」の各部分をつなぐ「節々」(エペソ4:16)や「筋(複数形)」(コロサイ3:14「結びの帯」,エペソ4:3「絆」)がしっかり「つなぎ合わされ」ることも重要です。各部分の間に良好な関係があるなら成長は促進されることでしょう。もちろん、成長は神によることは言うまでもありません。偽りの教えは、教会を成長へと導くものではなかったのです。
「偽りの教え」は、「つかむな、味わうな、さわるな」(21節)や「肉体の苦行」(23節)と言ったことばから、禁欲的なものであったと思われます。しかし、「~しなければならない」「・・・してはいけない」という禁止事項は、人を本当に変えるものではありません。「人間の戒めや教え」に基づく規則は、一見「知恵のあることのように見えますが」、実際には「何の価値もなく、肉を満足させるだけ」(23節)のものです。そのようなものに惑わされてはなりません。
このメッセージは2025.3.9のものです。