キリストの十分性 コロサイ2章8-15節
パウロは、8-23節で「偽りの教えの問題」を取り上げています。8節では、その教えの特徴を説明し、9-15節では、なぜその教えを否定しなければならないのか、その理由を説明しています。
パウロはまず、8節の冒頭で「注意しなさい」(共同訳:「気をつけなさい」)と警告を発しています。何を注意しなければならないのでしょうか。「だれかの捕らわれの身にならないように」とは、偽教師に惑わされて、彼らの教えに引き込まれてしまないように、という警告です。
パウロは、偽教師が人々を捕らえる手段を「あの空しいだましごとの哲学」と呼んでいます。「哲学」(フィロソフィア)とは、「知恵」(ソフィア)に対する「愛」(フィリア)を意味しますが、当時においては幅広い思想や考えを指すことばとして使われていました。ですから、パウロは「哲学」そのものを否定しているわけではなく、偽りの教師たちが教えていた特定の哲学を問題視していたのです。
パウロは、偽教師たちの教えを三つのことばで説明しています(「による」という前置詞を三回繰り返している)。一つ目の「人間の言い伝えによる」とは、その教えは神ではなく、人間の伝統を起源としたものであるということです(参 マルコ7:1-13)。二つ目の「この世のもろもろの霊による」(「もろもろの霊」と訳されたことばは、とても難解。第三版「幼稚な教え」)とは、おそらくその偽りの教えの背後に悪い霊的な存在の働きがあることを示唆しているのでしょう。三つ目の「キリストによるものではありません」とは、その教えは「知恵と知識の宝」(3節)であるお方(キリスト)から離れたものであるということでしょう。
パウロは、偽りの教えを「キリストによるものではありません」ときっぱりと否定した後、9-15節では、その理由を説明しています。
第一は、キリストは完全な神であり人であり、私たちの霊的な必要を十分に満たすことができるお方だからです(9-10節)。9節前半は1章19節と同様にキリストの神性を強調しています。9節の後半の「形をとって」とは、「人間の肉体において」という意味で(参Moo,p194)、受肉を指していると考えられます。神であり人であるキリストによって、救いをはじめとするさまざまな恵みが十分に満たされるとするなら(参 ヨハネ1:16)、私たちは他に恵みを求める必要はありません。
第二は、キリストは主権者だからです。10節には、キリストが「すべての支配と権威のかしら」とあります。「支配と権威」については、すでに1章16節において被造物として登場していますが、創造者(御子)が被造物にまさるのは当然のことでしょう。2章15節では、悪しき霊的な存在が打ち負かされたことが示されています。ローマの将軍が戦いに勝利した後、敵を捕虜として連れ歩く「凱旋パレード」に例えられています(参 Ⅱコリント2:14)。偽りの教えの背後に霊的な力があったとしても、キリストの勝利によってそれらは無力化されているのです。
第三は、キリストは「すべての背きを赦し」てくださる唯一のお方だからです(13節)。9-11節には「キリストのうち(あって)」、12-13節には「キリストとともに」という言葉が繰り返されていて、キリストと信じる者たちとの一体性が強調されています。キリストが私たちの罪という負債をすべて負って死んでくださったので、私たちのすべての負債は消し去られているのです。
私たちにとってキリストが十分なお方であるなら、なぜ「空しいだましごとの哲学」を求める必要があるのでしょうか。キリストこそ、私たちの必要を満たし、罪を赦し、悪しき霊的な力に勝利された方であることを覚えましょう。
このメッセージは2025.3,2のものです。