キリストを知る コロサイ2章1-7節
パウロは自分の使徒としての務めを理解してほしいと引き続き願っています。先には(1:24-29)主に一般論として語ったことを、ここでは(2:1-5)コロサイや近隣の都市のクリスチャンたちの状況を意識しながら自分の務めについて語っています。
パウロはすでに,自身の「苦しみ」や「奮闘」(1:24,29)について語っていましたが、ここでも改めて自分の「苦闘」を知ってほしいと願っています。彼らのための「苦闘」とは何を指しているのでしょうか。まず考えられるのが「祈り」です。コロサイの教会のためにパウロは定期的に祈り続けていました(1:9)。パウロはエパフラスの祈りに言及する際に「奮闘する」(1:29)と同じ動詞を用いています(4:12「励んでいます」)。会ったことのない人々のために忍耐強く祈り続けることは、まさに「苦闘」と言えるのではないでしょうか。もう一つは、パウロは今、獄中にあって教会の健全な成長を願いながら手紙を書いています(4:16 すでにラオディキアの教会には手紙を送っている)。パウロのそういった「教会への心遣い」(Ⅰコリント11:28)のことが考えられるでしょう。
では、パウロがほとんど顔を合わせたことのないクリスチャンたちのために苦闘する目的は何でしょうか。一つ目は、彼らが「心に励ましを受け」る(2節)ためです。迫害の中にあっても主に忠実に仕え続けているパウロの存在は、きっと彼らを励ましたことでしょう。二つ目は「愛のうちに結び合わされ」るためです。パウロはすでに、コロサイのクリスチャンたちの愛を評価していましたが(1:4)、愛による一致は教会にとってとても重要なことです(参 3:13-14、ヨハネ13:34-35)。三つ目は、「豊かな全き確信」をを持つためです。確信は神のことばを正しく理解することで得ることができるのです(参 1:6)。
パウロの最終的な目的は、「キリストを知る」ことです(2節)。ここでは「キリスト」のことが「奥義」と表現されています。すでに「神のみころ」と「神」を知ることの重要性を述べてきましたが(1:9,10)、ここでは「キリストを知る」ことに焦点が当てられています(参 Ⅰコリント1:24,30)。なぜなら、「キリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されてい」るからです。
知恵とは、単なる知識の寄せ集めではなく、実践的なものです。それは人生のさまざまな出来事を神の視点で理解し、その理解に基づいて行動する力のことです。それは人間が神のみこころにかなった人生を歩むために不可欠なものです。キリストは、私たちの霊的な必要を十分に満たすことができるお方です。
パウロは、教会が偽りの教えに惑わされないようにと願っています(4節)。コロサイの教会にどのような「偽りの教え」が広まり始めていたかは後で述べられますが(2:8-23)、それらは「まことしやかな議論」と呼ばれているように、一見正しく見えるので、人々は惑わされてしまうのです。惑わされないためには、知恵と知識の宝であるキリストから離れてはならないのです。
パウロは、今獄中にあって彼らに直接関われないことを残念に思っていますが、肉体は離れていても(参 Ⅰコリント5:3-4,Ⅰテサロニケ2:17)、彼らの「秩序」や「キリストに対する堅い信仰」を喜んでいることを伝えています。この言葉からすると、偽りの教えの影響はまだ深刻ではなかったと考えられます。治療よりも予防の方が勝ります。被害が広がる前に警告し、教会を守ろうとしていたパウロの姿勢がうかがえます。
[6,7節の「キリストにあって歩む」については、説教集をみてください]
このメッセージは2025.2.23のものです。