神から委ねられた務め コロサイ1章24-29節
パウロは自らの働きについて、「神から委ねられた務め」と述べていますが、その務めをどのように理解していたのでしょうか。
第一に、苦しみをともなう務めとして理解していました。しかし、ここでパウロは、自分が直接関わっていないコロサイのクリスチャンたちのために経験している「苦しみ」に言及しています。なぜ関わっていない人たちのために苦しむのでしょうか。パウロはそれを説明していません。しかし、神から異邦人への使徒として召されたパウロにとって(ローマ15:16,エペソ3:1,8)、コロサイ人たちは彼の異邦人宣教の延長線上にあったからだと思われます(参 Ⅱコリント11:28)。
パウロは、彼らのために受ける苦しみを「喜びとしています」と述べています(24節)。苦しみは本来、喜びとはならないはずです。では、なぜ苦しみを喜ぶことができたのでしょうか。自分が委ねられた務めが苦しむ価値のあるものであり(使徒5:41)、コロサイのクリスチャンたちの益となることを知っているからです。そして、最終的には神の栄光にあずかることに目を留めていたからです(ローマ8:17)。
パウロはまた、自らの苦しみを「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」(24節)と述べています。とても難解な箇所ですが、はっきり言えることは、パウロは、キリストの苦しみ(十字架)が救いのみわざとして不完全だったので自らの苦しみによってそれを補う必要がある、とは考えていなかったということです(参 ヘブル9:26,ローマ6:10)。では「キリストの苦しみ」とは何を意味しているのでしょうか。パウロは、神から託された働きにおける苦しみとキリストの苦しみを結びつけています。「キリスト」と「キリストのからだ」である「教会」は一体であり(参 使徒9:4-5)、パウロの「教会のため」の苦しみは、キリストの苦しみの延長にあるということを言いたかったのでしょう。
第二に、神のことばを余すところなく伝える務めと理解していました。パウロが伝えようとしていた「神のことば」とは、「福音」(23節)であり、「キリスト」(28節)です。ここでは「奥義」という言葉を使って説明しています(25-27節)。奥義とは、神の啓示によって明らかにされる真理のことです。パウロが示す奥義とは、「あなたがたの中におられるキリスト」であるとしています。
パウロは、クリスチャンたちが「キリストにある」(1:2)ことを明らかにしていましたが、ここでは異邦人クリスチャンである彼らのうちに「キリストがおられる」という真理を明らかにしています(参 ローマ8:10,Ⅱコリント13:5,ガラテヤ2:20)。このような表現は、キリストとクリスチャンたちの親密な関係を示しています。先にパウロは、キリストの卓越性を語りましたが、その卓越したお方が私たちのうちにおられるということは、何と畏れ多いことでしょう。
第三に、クリスチャンたちを「成熟した者」とするための務めであると理解していました(28節)。パウロの務めの目的は、この世で成功することではなく、「成熟した者」として訓練し導くことでした。信仰をもったばかりの人が霊的に成長し、やがて大人の信仰者となるように、パウロはその目的をしっかりと見据えていました。パウロは、「すべての人」ということばを三回繰り返して、その対象が、ある一部の人々ではなく、すべてのクリスチャンであることを示しています。
このメッセージは2025.2.16のものです。