和解 キリストの死の意味 コロサイ1章21-23節
キリストの死の意味の一つに「和解」があります。「和解」とは、簡単に言うなら、「関係の回復」のことです。「和解」について言及している他の箇所(ローマ5:6-11,エペソ2:11-18,Ⅱコリント5:18-21)も見ながら、和解とは何かを見ていきましょう。
第一に、「和解の対象」は誰でしょうか。パウロは、20節では神の和解の対象を「万物」としていましたが、21節では、和解の対象を自分を含めたコロサイの人々(「あなたがたも」)に焦点をしぼっています。和解の対象は私たち人間です。
第二に、「和解の必要性」、つまり、なぜ人は神との和解を必要としているのでしょうか。それは、人は神の前に「罪」という問題を抱えていて、神との関係が損なわれているからです。パウロは、コロサイのクリスチャンたちの過去と今を鋭く対比させて、「かつて」はどういう状態にあったかを三つの表現で説明しています(21節)。一つ目は「神から離れ」ていた(参 エペソ4:18)です。人は造り主である神から離れて、その結果、人としての尊厳や生きる意味を見出せなくなっているということです。二つ目は「敵意を抱き」(共同訳「心の中で神に敵対していました」)です。敵意はその人が自覚できないほど深刻なものです。三つ目は「悪い行いの中にあ」った(参 3:5-8,エペソ2:3)、です。罪の程度には個人差があるでしょうが、神との断絶が現実の罪の行動となって表れるのは自然なことです。
パウロは、人の神に対する敵意だけではなく、神の人に対する敵意にも言及しています(ローマ5:10)。そして、人はその罪のゆえに神の御怒りの対象であることを明らかにしています(ローマ1:18,エペソ2:3)。
なぜ和解が必要なのでしょうか。神と人との間に敵意があり、関係が壊れてしまっているからです。人は神を離れて、本当の生きる意味も神とともに生きる人生の幸いも見出せなくなっているからです。
第三に、「和解の手段(方法)」は何でしょうか。「御子の肉のからだにおいて、その死によって」(22節)と表現されています。つまり、キリストの死が和解の手段なのです(参 ローマ5:10、エペソ2:16)。
第四に、「和解の動機」は何でしょうか。私たちへの愛のゆえです。本来和解を必要としているのは神ではなく人の側です。人と人との和解において、和解を必要とするのは罪を犯した側で、罪を犯した側から「和解してください」、と申し出るのが普通です。しかし、神との和解においては全く逆です。なぜなら、人間の方は和解の必要性もよく分からず、和解のための手段を全く持ち合わせていないからです。
神はご自身の愛する御子を犠牲とすることによって、その愛を明らかにしておられます(参 ローマ5:8)。その愛は常識では考えられないほど深い愛です。愛される価値のない者への愛と言っていいでしょう。
神はキリストのみわざを通して、すべての人に和解の手を差し伸べています。キリストが十字架において「完了した」(ヨハネ19:30)と言われたように、和解のための準備はすべて整っています。後は、あなたが和解の必要性を理解して、感謝をもってそれを受け入れるかどうかです。神は、あなたが神との正しい関係の中で生きることの意味と喜びを見出すことを心から願っています。
このメッセージは2025.2.9のものです。