御子(キリスト)の卓越性 コロサイ1章15-20節
今回の箇所は、御子(キリスト)の卓越性が示されています。一つは、創造における御子の卓越性(15-17節)、もう一つは、和解における御子の卓越性です(18-20節)。
まず、パウロは御子を「神のかたち」と呼んでいます(15節)。「かたち」と訳されているのはギリシア語「エイコーン」ということばです。御子が「神のかたち」であるとはどのような意味でしょうか。御子は神を映し出す存在であり、神を完全に啓示するお方であるということです(参 ヨハネ1:18)。神は見えないお方ですが(参Ⅰテモテ6:16)、その見えない神を御子に見ることができるということです(参 ヨハネ14:9)。
次に、パウロは御子を「すべての造られたものより先に生まれた方」と呼んでいます(15節)。「先に生まれた方」(ギリシア語:プロートトコス)は、18節の「最初に生まれた方」と同じことばです。この言葉はどのような意味でしょうか。御子はすべての被造物の中で最初に造られたものであるという意味に誤解されてしまいそうですが、そのような意味はありません。「プロートトコス」は、他の箇所では「長子」と訳されています(参 ヘブル1:6,ローマ8:29)。この言葉について、N・T・ライトは「時間と地位の両方における優先性を伝えて」いて、そして「どちらかを除外すべきではない」と説明しています。
文脈に注目すると、16節の「なぜなら」(理由を説明することば)の後に、御子が「万物」(すべての被造物)を創造されたお方であることが説明されています。もし「先に生れた方」を最初に造られた方という意味に解するなら、「御子は最初に造られたお方です。なぜなら、すべてのものを造られたお方だからです」という矛盾した意味になってしまいます。
17節には、御子は被造物と区別される存在であり、初めからおられた方であること(永遠性)、そして、ご自身が造れられたものを支え、保ち続けておられるお方であることが明らかにされています(参 ヘブル1:3)。
さらに、パウロは御子を「教会のかしら」であると呼んでいます(18節)。御子が「かしら」であるということは、教会は、御子に依存していて、その統治下にあるということです。御子が「初め」であるとは、その主権を示し、「死者の中から最初に生まれた方」(18節、黙示録1:5)であるとは、御子が死者の中から最初によみがえられた方であるということです(参 Ⅰコリント15:20)。
パウロは19節で、御子の神性を強調したあと(参 2:9,ヘブル1:3),神がキリストの「十字架の血によって」(22節で「死によって」と言い換えられている)、「平和をもたらし」、「御子によって、御子のために万物を和解させ」てくださったことを明らかにしています(20節)。
ここで注目すべきは、パウロは和解の対象(範囲)を人間だけに限定せず「万物」(20,16,17節)としていることでしょう。パウロは創造の後に何が起こったのかを説明していませんが、創世記3章の人間の堕落を前提としていることは明らかです。和解の対象が「万物」なのは、人間の罪の影響は、その他の被造物にも及び、本来の秩序と調和が失われてしまっていて(参 ローマ8:19-)、その回復のことが念頭にあるからだと考えられます。
15-20節には、創造と和解におけるキリストの卓越性が明らかにされています。御子の人格とみわざが正しく理解されるなら、御子を賛美し、礼拝をささげることはふさわしいことなのです(参 黙示録5:12-14)。
このメッセージは2025.2.2のものです。