あいさつと感謝 コロサイ1章1-8節



 1-2節のあいさつから、私たちは誰のことばに聞く必要があるのか、またクリスチャンは、自分をどのような者と考えるべきなのかを確認することができます。

 パウロは自らを「キリスト・イエスの使徒」(アポストロス 「使わされた者」という意味)と名乗っています。パウロの回心の様子は使徒の働き9章に記されていますが、パウロが使徒として召されたのは彼の願いによるものではなく、「神のみこころによる」ものでした(参 ガラテヤ1:1,13-)。使徒はキリストの権威をもって語る者です。ですから、偽りの教えの影響を受けていたコロサイのクリスチャンたちだけでなく、今日の私たちもしっかりと使徒の言葉に聞かなければならないのです(参 Ⅰテモテ2:7)。

 次に、パウロはコロサイのクリスチャンたちを、四つの言葉で呼んでいます。一つ目は「キリストにある(in Christ)」者です。彼らは物理的には「コロサイにいる(にある)」者ですが、霊的にはキリストにある者たちです。私たちもかつてはその罪ゆえに「アダムにあっ(in Adam)」た者ですが、今は神の恵みによって「キリストにある(in Christ)」者となっているのです(Ⅰコリント15:22)。

 二つ目は、「聖徒たち」(1:2,4,12,26,5:12)です。神のために聖別された者たちという意味で(聖なる者となるように期待はされていますが)、特別なエリート・クリスチャンを指しているわけではありません。

 三つ目は「忠実な」者たちです。神への信頼や従順を指しています。この手紙の中では、「エパフラス」(1:7)、「ティキコ」(4:7)、「オネシモ」(4:9)に対してもこの言葉が用いられています。

 四つ目は「兄弟たち」です。私たちは血は繋がっていないかもしれませんが、神の家族の一員であり(エペソ2:19)、親密な交わりの中に入れられているのです。

 3-8節では、パウロが誰に、何を感謝しているのかが分かります。パウロの感謝の対象は「父なる神」(3,13節)で、パウロの感謝の根拠は、コロサイのクリスチャンたちの「キリスト・イエスに対する信仰」と「すべての聖徒に対して・・・抱いている愛」(4節、参 8節)を聞いたからです。言い換えるなら、パウロが父なる神のお働きによって、彼らのうちに真のクリスチャンとしてのしるしを見ているからなのです。そして、彼らの信仰や愛は、福音を通して与えられた「望み」(エルピス 共同訳「希望」5節)に基づくものであることを明らかにしています。



 パウロは、コロサイのクリスチャンたちに信仰と愛をもたらした「望み」を「天に蓄えられている望み」と表現しています。「天に蓄えられている望み」ですから、それは根拠のない楽観的な期待ではなく、神によって確かに保証されたものです。パウロは「天に蓄えられている望み」を具体的に説明してはいませんが、12節の「聖徒の相続分」、天の御国、栄光に満ちた復活の体、救いの完成などの意味を考えることができるでしょう。

 「望み」は、「福音」という信頼できる「真理のことば」によってもたらされたものであり、それはパウロが「同労のしもべ」「仕える者」と呼んでいる「エパフラス」からコロサイのクリスチャンたちが学んだものでした(7節)。


 「福音」は、「神の恵みを聞いて本当に理解した」(6節)コロサイのクリスチャンたちの人生を変えるものとなりました。もし信仰を告白する人たちの人生が、何も変わらないとするなら、「神の恵み」がどのように理解されているのだろうかと、改めて問う必要があるのではないでしょうか。


          このメッセージは2025.1.19のものです。