コロサイ人への手紙 コロサイ1章1-2節



 十三通のパウロの手紙の一つである「コロサイ人の手紙」をこれから見ていきましょう。初回ということで、誰が書いたのか、誰に宛てた手紙なのか、どこでいつ頃書かれたのか、どのような目的をもって書かかれたのかを把握しておきたいと思います。

 まず、著者は誰でしょうか。あいさつの部分(1-2節)には、「パウロと、兄弟テモテから」となっています。差し出し人には「テモテ」の名が連ねられていますが、実際にはパウロが書いた手紙であることは、1章23節の「私パウロは」や4章18節の「私パウロが自分の手であいさつを記します」とのことばからはっきりしています。

 次に、誰に宛てて書かれたのでしょうか。2節の「コロサイにいる・・・兄弟たちへ」ということばから、コロサイの町のキリスト者たちへの手紙であることがわかります。「コロサイ」はローマのアジア州(現在のトルコ)のフリュギア地方のリュコス川流域にあった町です。「エペソ」からは193キロぐらい離れていて、近隣には「ラオディキア」や「ヒエラポリス」の町がありました(2:1,4:13-14 回覧を意図した手紙でもあった)。

 ところで、コロサイのキリスト者たちはどのようにして信仰を持ったのでしょうか。1章7節の「あなたがたは私たちの同労のしもべ,愛するエパフラスから福音を学びました」から、コロサイ出身(4:12)のエパフラスの伝道によってであることがわかります。エパフラスがどのように信仰をもったのかについては、おそらくパウロの第二回伝道旅行のエペソ滞在中の期間(52-55年)ではないかと考えられます。(参 使徒19:8-10)。とするなら、パウロの間接的な働きによってということが言えるかもしれません。

 次に、どこでいつ頃書かれたのでしょうか。場所を特定する手がかりはパウロがこのとき、獄中にいたということです(参 4:3,10,18)。パウロは何度も投獄されたことを証ししていますが(Ⅱコリント11:23)、使徒の働きから、可能性を考えると「カイサリア」(使徒24章)と「ローマ」(使徒28章)が浮かび上がってきますが、「ローマ」の可能性が高いと考えられます(MooやO’Rrienを参照。N・T・ライトは「エペソ」)。もし「ローマ」とするなら、60-62年ぐらいの間に記されたと考えることができます。

 最後に、どのような目的をもって書かれたのでしょうか。一つ目は、「誤った教え」に警戒を促すためです(参 2:4)。「誤った教え」が具体的にどのようなものであったのかは正確にはわかりません。なぜならパウロは、その教えがどのようなものなのかを直接言及していないからです。ただ手がかりは、「あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい」(2:8)の言葉や、特に2章16-23節からユダヤ教的な教えや実践(16節)、禁欲主義的(21,23節)な要素を持ったものであったことが推測されます。 

 二つ目は、受け入れた信仰にしっかりとどまり、成熟したキリスト者となることを願ってと考えられます。コロサイ人への手紙の中心聖句は2章6,7節です。そこには「あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、・・・教えられたとおり信仰を堅くし」とあり、1章23節には「聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません」との言葉を見出します。

 パウロは自分の使命について「すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるため」(1:28)だとし、それはコロサイの人々を信仰へと導いたエパフラスの祈りでもあることを明らかにしています(4:12)。


          このメッセージは2025.1.12のものです。