人生最大の試み 創世記22章1-24節



 愛するイサクが成長し、寄留している地で平和な生活を送っている最中、神はアブラハムを思いがけない大きな「試練にあわせられ」ました(1節 NKJV 「テストした」)。これまで愛し育ててきたイサクを「全焼のささげ物として献げなさい」(2節)と、神は命じられたのです。考えただけでも恐ろしいことです。読者である私たちには、今回の出来事がアブラハムに対する「試み」(ヘブル11:17)であることが1節で説明されているので、その視点で読み進めることができます。今回の出来事から私たちはどのようなことを読み取ることができるでしょうか。



 第一に、アブラハムの驚くべき従順を見ることができます。神は御使いを通してアブラハムに「わたしの声に聞き従った」(18節)と言っていますが、アブラハムが神の声に従うためには、三つの問題を乗り越えなければなりませんでした。

 一つ目は「愛情という問題」です。21章には、もう一人の息子の「イシュマエル」を家庭から追い出されなければならなかった際に、アブラハムは「非常に苦しんだ」(21:11)とあります。追い出すだけでも苦しいとするなら、ましてや愛する我が子に手をかけなければならない今回のケースは、肉の思いが強く抵抗したのではないでしょうか。二つ目は「倫理的な問題」です。人の命を奪うことは倫理的に許されない行為です(参 創世9:5-6、出エジプト20:13)。また、人身御供は異教徒たちの忌むべき行為にならうことではないでしょうか(レビ18:21,Ⅱ列王16:3)。三つ目は、「神の約束との矛盾の問題」です。神はイサクを通して多くの子孫を約束しておられました(17:19)。もしイサクを殺してしまったなら、その神の約束はどうなるのでしょうか。神が命じていることは、神の約束と矛盾しているのではないでしょうか。



 アブラハムは神の命令に対して、即座に旅支度をして出発し、神が指定された山へとイサクを伴って向かっていきます。彼の心理的な葛藤についての言葉は一切ありません。むしろ、淡々と落ち着いて従うアブハムの姿が見られます。ここに驚くべき従順をみることができます。



 第二に、なぜアブラハムは神の命令に従うことができたのか、その理由です。神の意図が理解できたからではなく、神への信頼(信仰)があったからといえるでしょう。これまでのアブラハムの人生を振り返るときに、アブラハムの信仰は常に一定であったわけではなく、波がありましたが、それらの経験を通して神は彼のご自身に対する信仰を高嶺へと導かれてきたのです。言い換えるなら、小さな試みをとおして彼を今回の人生最大の試みに耐えられるように整えてこられたのです(参 Ⅰコリント10:13)。



 最後に、アブラハムが試みを通して得た確信についてです。アブラハムはイサクの「全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか」(7節)との問いに、「神ご自身が・・・備えてくださるのだ」(8節)と答えています。そして、神が備えられた雄羊をイサクの代わりに全焼のささげ物として献げた後、その場所を「アドナイ・イルエ」(欄外注「主が備えてくださる」)と呼んでいます。アブラハムは、神に信頼する者は、神が備えてくださるお方であることを知ったのです。大切なものを手放すのは誰にとっても辛いことでしょう。しかし、神はアブラハムに厳粛な誓いをもって、これまでの約束をさらに強く保証しておられることがわかります。


          このメッセージは2024.12.8のものです。