喜びと苦悩 創世記21章1-34節

 

 人生には喜びがあり、また苦悩があるように、アブラハムの人生にもそれがありました。喜びは、待望のイサクが誕生したことです(1-7節)。苦悩は、自分のもとで成長していたイシュマエルを去らせなければならなかったことです(8-21節)。

 神がアブラハムに約束の子イサクを与えられたのは百歳になってからです(4節)。実にカナンにやって来て25年が経過していました(参 12:4)。神はこれまで何度も彼に子孫の約束をしておられましたが、ついにその約束が実現したのです。1-2節には、「主は約束したとおりに」、「主は告げたとおりに」、「神が・・・告げられたその時期に」と、神がその約束を果たされたことが強調されています。約束はアブラハム夫婦が願った「時期」ではありませんでしたが、確かに与えられたのです。神が語られることばは必ず成ります。そのことは神が信頼できる真実なお方であることを示しています(参 イザヤ55:11,ヘブル11:11)。

 アブラハムは約束を実現されたお方に対して従順をもって応答しています。その一つは、誕生した男の子に「イサク」と名づけたことです(17:19)。もう一つは、神が契約のしるしとして命じられていた割礼をイサクの「生後八日に」(5節)施したことです(参17:12)。

 サラは長年「不妊の女」(11:30)として苦しんできましたが、ここでは感謝や驚きの喜びに満たされています(6,7節)。かつては高齢の自分たちに赤ちゃんが与えられるとは信じられないと「笑っ」た(18:12)彼女ですが、神は彼女の不信の笑いを喜びの笑いに変えてくださったのです。

 イサクが「乳離れした」時のこと(おそらく三歳ぐらい)、アブラハムは祝いの盛大な宴会を催しました。そのときサラは、ハガルが産んだイシュマエル(8-21節では、彼は一度も「イシュマエル」という名で呼ばれることはない)がイサクを「からかっている」(共同訳「遊び戯れている」)のを見ました。具体的にイシュマエルが何をしたのかについては議論がありますが、その様子を見たサラは怒り、イサクのライバルとなる脅威と感じて、夫のアブラハムに「この女奴隷とその子を追い出してください」(10節)と要求しました。サラにとってはイサクだけが自分の子であり、イシュマエルは女奴隷ハガルの子にすぎなかったのです。イシュマエルの誕生の経緯(16章)を考えるとあまりにも身勝手という感じがします。

 一方、アブラハムにとってイシュマエルは、イサクが生れるまでずっと跡取りとして育ててきた自分の子です。サラとは異なり、アブラハムは「非常に苦し」みました(11節)。苦悩するアブラハムに対して神はサラに同意するように語りかけられます。契約を継承するのはイサクであること(12節、17:19,21)、そして、イシュマエルについては、「あなたの子孫」として祝福することを改めて約束しています(13節、17:20)。

アブラハムのもとを追い出されたハガルとイシュマエルは「ベエル・シェバの荒野」で迷ってしまったようです(14節)。水は尽き、死を覚悟しなければならない状況に追い込まれます。しかし、神は二人を見捨てることはありませんでした。17節には、「神は・・・聞かれ」「神が、・・・聞かれた」と繰り返され、ここでも神は「イシュマエル」(16:11欄外注「神は聞く」という意味 )と名づけられた通りのお方であることが示されています。たとえ人は見捨てるようなことがあっても神はアブラハムの子孫(参 ガラテヤ3:6)を見捨てるようなことはなさらないのです。 


          このメッセージは2024.12.1のものです。