滅びと救い 創世記19章1-29節



 18章にはアブラハムによるとりなしがあり、19章にはその結果が明らかにされています。残念ながら、ソドムの町には10人の正しい人がいなかったのです。神は正義をもって罪をさばかれました。しかし、その一方で神はあわれみをもって、またアブラハムのとりなしを覚えてロトを救いへと導かれたのです。

 「二人の御使い」(1節)はアブラハムと別れた後(18:22)、「夕暮れにソドムに着」きました。その二人はロトの家に迎え入れられ、もてなしを受けました。

 夜中の何時ごろか正確にはわかりませんが、町の男たちがロトの家を取り囲み(4節)、ロトが家に迎え入れた来訪者を「ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ」と要求しました(「知る」ヤーダーには性的な意味もある。参 ユダ7節)。

 ロトは家の外に出て身を挺して来訪者を守ろうとしましたが、町の人たちを説得することはできませんでした。ロトの危険を感じ取った御使いたちはロトを家の中へと引き入れ、群衆に目つぶしを食らわせました。守ろうとしたロトは逆に御使いたちに守られたのです。その後、御使いたちはロトに来訪の目的を告げ(13節)、身内の者たちと一緒にこの町を離れるように警告しました。

「世が明けるころ」、御使いたちはロトとその家族に町を離れるようにせきたてますが、ロトは「ためらってい」ました(16節)。その理由は説明されていませんが、これから起ころうとしているさばきの現実をすぐには受け入れられなかったのでしょうか。

 ぐずぐずしているロトを見て御使いは彼と彼の家族の手を引いて町の外へと連れ出しました。「主のあわれみによる」とあるように、神のあわれみがなかったなら町とともにロトたちは滅びたことでしょう。

 「太陽が地の上に昇り」(23節)、ロトたちが「ツォアル」(14:8)に着くと、かつてロトがアブラハムと別れた際に見渡した「低地全体」(13:10)を主は滅ぼされました。逃げる途中、ロトの妻は御使いのことばを無視して振り返ったために生きて逃れることはできませんでした。彼女の心はまだソドムにあったということなのでしょうか(参 マタイ6:21)。終わりのさばきを警告する文脈で「ロトの妻のことを思い出しなさい」(ルカ17:32)との主の言葉があります。ヨハネの「世も世にあるものも、愛してはいけません」(Ⅰヨハネ2:15)とのみことばが思い出されます。

 アブラハムは以前、主の前にとりなしをした場所に行き(27節、18:22)、自分のとりなしの結果を知ることになります。ロトがどうなったかは分からなかったでしょうが、ロトは救い出されていたのです。その背後には「神はアブラハムを覚えておられた」(29節)とあるように、神は彼の祈りに答えられたのです(参 18:23)。

 ソドムやゴモラに対する神のさばきは旧約や新約に何度も出てきます。罪に対する神のさばきは正しく強調される必要があります。また、その一方において神の豊かなあわれみによって救いの道が備えられていることも強調される必要があります。ロトを含めて、私たちが救いにあずかっているのは私たちの行い(正しさ)によるのではなく、神のあわれみ(恵み)によるのだからです。


      このメッセージは2024.11.17のものです。