イシュマエル誕生 創世記16章1-16節


 16章には、「アブラム」とサライの「女奴隷ハガル」との間にどのようにして「イシュマエル」が誕生するようになったのかが記されています。

 神はアブラムに何度も彼の子孫を増やすと約束してこられました(参 13:16,15:5)。しかし、カナンにやってきて「十年」(3節)が経過しても、いっこうにその約束は実現しそうにありませんでした。増えるどころかまだ一人の子どもさえもいなかったのです。自分や妻の年齢(85歳と75歳)を考えると子どもが与えられる可能性は少なくなっていくばかりです。特に、子どもを産む性を担っていたサライにとって、不名誉な不妊の状態が続くことは耐えがたいことだったと思われます(参 30:1)。

 それで、サライは夫であるアブラムに「主は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう」(2節)と提案しました。当時の社会においては、正妻に子どもが生れない場合に、夫と奴隷との間に子どもをもうけて、その子に相続させるということは珍しいことではありませんでした(参 30:3,9)。

 15章では、神はアブラムに「あなた自身から出てくる者が」と言われましたが、厳密にはサライとの間からとははっきりと言われていませんでした(サライとの間と考えるのが普通だが 参 17:16)。アブラムは繰り返される神の約束と自分たちが置かれた現実のギャップの中で、もしかしたら神はサライが提案した方法を通してご自身の約束を実現しようとしておられるのかもしれないと思い始めたのかもしれません。そして、アブラムは神の声ではなくサライの声に従い(参 3:17)、彼女の女奴隷であるエジプト人のハガルのところに入り、ハガルはアブラムの子を身ごもることになるのです。

 しかし、サライの思惑通りにことは進みませんでした。ハガルは自分が主人の子を身ごもったことを知ると、自分の本来の立場を忘れ、女主人であるサライを「軽く見るようになった」からです。自分の方が優れていると高慢になってしまったのでしょう。犠牲を払って夫に女奴隷を差し出したサライにとって、ハガルの態度は自分の妻としての立場を脅かすものと感じたことでしょう。彼女はその責任がアブラムにあると彼に訴えると、アブラムは「あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある、あなたの好きなようにしなさい」(6節)と、二人の女性の間にしっかりと介入しようとしませんでした。それで、サライの怒りはハガルに向かい、彼女を「苦しめ」、その苦しみに耐えかねてハガルは逃げることとなるのです。

 イシュマエル誕生の発端は、アブラム・サライ夫婦が神の約束を忍耐強く待つことができず、当時の社会的習慣によって神の御心を実現しようとしたことによります。後に、「イシュマエル」は母親のハガルと共にアブラムの家庭から追い出されることになります(21章)。神は不信仰さえも益とすることができるお方ですが、その不信仰によってアブラム・サライの家庭に苦悩がもたらされ、ことにサライにとって「イシュマエル」の存在は真の喜びを彼女にもたらすことはなかったのです。私たちは愚かにも先走った行動をしてしまうことがありますが、神に信頼して忍耐強く待つことの方がよいのです(参 詩篇62:5)。なぜなら、そこにこそ真の喜びと祝福が備えられているからです。

              このメッセージは2024.10.27のものです。