信仰によって義と認められる 創世記15章1-21節
アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた(創世記15章6節)。
東の王たちを奇襲によって打ち破り、甥のロトを救出したアブラムに、「恐れるな」との主の言葉が臨みます (1節)。東の王たちの報復を恐れてか、極度の緊張から解放された後の落ち込みからか、将来に対する漠然とした不安からか、主は「わたしはあなたの盾である」と彼を励まされます。「盾」は守り、保護を意味します。アブラムの力や知恵が彼の盾ではなく、神ご自身が彼の確かな守り手であることを示されます。不安定で不確かな時代に、主から「あなたの盾である」との言葉を聞くことができる者はなんと幸いでしょう。
アブラムは神が約束の通りに子孫を下さらないので(12:2、13:16)、当時の慣習に従って自分の家の奴隷を相続人にしようかと考えます(3節)。しかし、神はそれをはっきりと禁じられ、彼自身の子がその跡を継ぐようにと命じられます。そして彼を野外に連れ出し、夜空の星を見上げさせます。主はアブラムにご自身の創造の業である星を通して、神の偉大さ、力を示されます。そしてまた、「星を数えられるなら数えなさい」(5節)と言って、数えることのできない人間の無力さをも示されます。
アブラムは段々と年老いていき、子どもを持つことが期待できないような現実から(ローマ4:19-)目を離して、神ご自身に目を向けます。そして、神が約束の通りに子どもを下さるということを信じます。神は彼のその信仰を「義と認められ」ます(6節)。
アブラムが信仰によって「義と認められた」ことは、新約聖書に何度も言及されています(参 ローマ4:3、9、23、ガラテヤ3:6、ヤコブ2:23)。彼がその信仰を義と認められたことは、「彼のためだけでなく、私たちのためでもあります」(ローマ4:23-)とあるように、旧約の時代も今日も、神の前に人が義と認められる(救われる)のは、行いではなく、信仰であることが分かります。なぜなら、行いによって義と認められようとするなら、完全でなければならないからです(参 ローマ3:20、ガラテヤ3:10-、ヤコブ2:10)。
多くの宗教が行いによって神に至ろうとする道を説いています。しかし、聖書は繰り返し、本当に神に至ることができる道は、信仰によってキリストを通してでしかないことを明らかにしています(ヨハネ14:6、ローマ3:22-)。
このメッセージは2024.10.13のものです。