アブラムの信仰 創世記14章1-21節
アブラムと別れたロトは戦いに巻き込まれて、東方の王たちの捕虜となって財産とともに連れ去られてしまいます。そのロトを救出するアブラムの姿があります。この14章からアブラムの信仰を見ていきましょう。
アブラムの信仰は、まず甥のロトに対する愛情(兄弟愛 14節「親類」直訳「兄弟」)に見ることができます。アブラムは戦場から逃げ延びてきた一人から甥のロトが捕虜となったことを聞いたとき、アブラムは無関心でいることはできませんでした。危険を覚悟しなければならない命がけの戦いです。しかし、愛する兄弟を見捨てることは彼にはできなかったのです(参 箴言17:17)。
私たちは信仰によって同じ神から生まれた神の家族です(エペソ2:19)。口では「兄弟」「姉妹」と言い合っても、そこに神が喜ばれる本当の交わりがないなら何とさみしいことでしょう。主はご自身の愛を示され、そして兄弟愛を私たちに命じられています(参 ヨハネ13:34-35)。互いのプライバシーを尊重しながらも、喜びや悲しみを分かち合い、励まし合いながら共に主の道を歩んでいきましょう(参 ローマ12:15)。
勝利して戻ったアブラムを二人の王が出迎えました。一人は「ソドムの王」(17節)、もう一人は「いと高き神の祭司」でもあった「サレムの王」です(18節)。この二人に対してアブラムは全く異なる対応をしていることがわかります。また、そのことからも彼の信仰を読み取ることができます。
次にアブラムの信仰は、勝利の栄光を神に帰し、神に仕える祭司でもあるメルキゼデクに十分の一をささげたことに見ることができます。メルキゼデクは謎に満ちた人物とも言えるでしょう(参 詩篇110:4,ヘブル7章)。彼は「サレム」(「平和」の意味。エルサレムを指す)の王であり祭司でした。彼は勝利して戻って来たアブラムを祝福し、その勝利をアブラムに与えられた神をほめたたえています。アブラムは自分が礼拝する神に仕える祭司であるメルキゼデクに「すべての物の十分の一」を自発的にささげました(20節)。
勝利や成功は高慢に陥りやすい時でもあります。なぜなら自分の力がそれをもたらしたと思ってしまう誘惑に陥ってしまうからです(参 申命8:17)。アブラムは勝利という祝福が全く神からのものであることを認めて(参 箴言10:22)、十分の一を祭司にささげることを通して神に栄光を帰したのです。そこに彼の信仰を見ることができます。
最後にアブラムの信仰は、主の祝福を汚しかねないソドムの王からは何も受けとらなかったことに見ることができます。ソドムの町が酷く堕落した町であることはアブラムも知っていたでしょう(参 13:13)。アブラムはどんなわずかなものでもソドムの王から受け取らない理由として、「『アブラムを富ませたのは、この私だ』と言わないようにするためだ」(23節)と言っています。本来、命がけの戦いにおける分け前を得ることは何も問題がなかったでしょう(参 24節「アネルとエシュコルとマムレには彼らの取り分を取らせるように」)。しかし、アブラムはソドムの王から受け取るなら、邪悪な王に誇る機会を将来与えることになることを見抜いていたのです。勝利という主の祝福を汚しかねないものをアブラムは拒絶したのです。富は私たちを惑わせてしまうところがあります(参Ⅰテモテ6:10)。神が喜ばれない富に手をつけることがないように貪欲に警戒しましょう(参 ルカ12:15)。
このメッセージ2024.10.6のものです。