試された信仰 創世記12章10-13章18節



 信仰によってカナンの南「ネゲブ」へとやって来たアブラムの信仰を試す二つの出来事が起こりました。一つは激しい「飢饉」(10節)です(祝福の約束のあとの飢饉)。もう一つは、カルデアのウルから一緒に旅をしてきたロトとの関係の問題です(13:7-8)。アブラムはこの二つの問題にどのように対処しているでしょうか。最初の問題には不信仰に陥り、次の問題には信仰をもって対処していることがわかります。

 エジプトは水が豊かな穀倉地帯でしたが、カナンは降雨の量によってしばしば飢饉に陥ることがありました。それでアブラムは飢饉を回避するために「しばらくエジプトに滞在するために下って行」くことにしました(10節)。アブラムがエジプト行きを選択したことが果たして神の御心だったのかについては議論がありますが(イサクの場合 26:2,ヤコブの場合 46:3)、エジプト行きによって彼の信仰は試されることになりました。

 エジプト行きにおいてアブラムには一つ気がかりなことがありました。それは美しいサライが自分の妻であることが分かるなら、自分が殺されるのではないか、という心配でした。それで自分の身を守るためにサライに「妹だと言ってほしい」(13節)と口裏合わせを求めました(20章では同じ失敗を繰り返している。26章では息子のイサクも)。神に信頼するのではなく、人を恐れて自分の知恵で自分を守ろうとしたのでした(箴言29:25)。

 ある意味でアブラムの策はうまくいき、妻サライはファラオのハーレムへと召し入れられ(参 19節)、アブラムはサライの兄として厚遇を受け多くの富を得ることとなりました(16節)。しかしアブラムが、自分の嘘が妻の貞操を危険にさらし、アブラムとサライとの間から多くの子孫が誕生する(参 12:2「大いなる国民する」)という神の祝福の計画を危うくすることに、どれほど気づいていたのかは疑問です。

 神はサライの貞操やご自身の約束を守るために、「ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれ」ました。その「わざわい」が具体的に何なのかは明らかにされていません。また、サライがアブラムの妻であることをファラオがどのように知ったのか、また「わざわい」の原因がサライをハーレムに召し入れたことにあることをどのように知ったのかはわかりません。ファラオはアブラムが自分を欺いたことを言葉では責めましたが(18,19節)、アブラムに実害を加えることはなく、エジプトで得た財産を持って妻サライとともに去ることを許しています。きっと神がアブラムに害を加えないようにファラオに警告を与えていたからだと思われます。

 本来なら、嘘をついたアブラムが何らかの罰を受けるべきでしたが、妻サライがファラオの手の中にあったので、神はファラオに介入されたのです。もし、神のあわれみによる介入がなかったなら、アブラム夫婦の人生は全く違ったものとなったでしょう。

 アブラムはエジプトを去り、「ネゲブ」(13:1)、そして以前「祭壇を築いた場所」(13:4,12:8)まで戻って来ることができました。エジプトでは不信仰になって嘘をついてしまいましたが、彼はそこで再び主を礼拝し、神との正しい関係を取り戻しているといえるでしょう。私たちも人生の問題に直面した時に信仰をもって対処できず失敗をしてしまう者です。しかし、アブラムのように悔い改めてもう一度やり直す機会が私たちにも与えられているということは、何という恵みでしょう。



            このメッセージは2024.9.29のものです。