メッセージを託された女たち マルコ16章1-8節



 主イエスの死、また埋葬を見届けた女たちが「週の初めの日の早朝」(2節)、すなわち、日曜日の朝に墓へ行きました。金曜日の日没前に行われたアリマタヤのヨセフとニコデモの二人の埋葬に不備があったということではなく(参 ヨハネ19:40)、彼女たちは埋葬に関わることができなかったので、自分たちの主に対する思いを表わしたいと願ったのでしょう。

 彼女たちは墓に向かいながら一つのことを心配していました。埋葬のときに墓の入り口を塞いだ非常に大きな石をどのように転がして取りのけることができるだろうか、ということでした(3節)。しかし、彼女らが墓に行くとすでに石は転がしてあり(参 マタイ28:2)、墓の中に入ると、「真っ白な衣をまとった青年」(御使い)が右側に座っていたので、彼女らは「非常に驚」きました。すると、その青年は「十字架につけられたナザレ人イエス」は「よみがえられました。ここにはおられません」と言い、その遺体があったはずの場所を見るように彼女らを促しました(6節)。

 さらにその青年は、よみがえられたイエスとはガリラヤで会うことができることを「弟子たちとペテロ」に伝えるようにと、彼女たちにメッセージを託しました(7節)。よみがえられた主が先にガリラヤに行くことは、主が十字架につけられる前夜に予告していた言葉であり(14:28)、「弟子たちとペテロ」に伝えるようにとは、逃げてしまった弟子たちと(14:52)、主を三回否認してしまったペテロ(14:66-72)に対する主の赦しと交わり、そして使徒としての回復を暗示させる言葉です。

 メッセージを託された女たちは恐怖と驚きのために、「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)と、マルコは結んでいます。彼女のたちの沈黙は、一時的なものだったと考えられます(参 マタイ28:8,ルカ24:9)。マルコが、主イエスの復活の事実を知りながらも、彼女たちの沈黙で福音書を終わらせているのは、彼女たちと読者たちを同じ立場に置き、あなたなら託されたメッセージをどうしますか、と問いかけたかったからかもしれないと考える人もいます。

 復活は信じがたいことです。墓に行った女たちにとってもそれは全く予期していなかったことでした。マルコが「空の墓」の事実をもって終わり、主の復活の顕現に言及していないのは、復活の事実を疑っていたからではありません。もし彼が復活の事実を疑っていたなら福音書を書くこともなかったでしょう。

 復活はキリスト者たちにとって確信のよりどころであり希望です。なぜなら、主の十字架の死の意味が私たちの罪の赦しのためであったとするなら、復活は主を信じる者に罪の赦しを保証するものだからです(参 使徒10:43,ルカ24:47)。

 御使いは女たちに「よみがえられました。ここにはおられません」(6節)と告げました。では、よみがえられた方は今どこにおられるのでしょうか。ご自身を信じる者たちとともにいてくださいます(参 マタイ28:20)。変わらないお方がともにおられて、私たちの人生を支え導いてくださるなら何と心強いことでしょうか。主とともに歩む方々の上に、主の豊かな恵みがありますように。

  [9-20節をどのように考えればよいかは説教集を見てください]

  このメッセージは2024.9.15のものです。なお、「マルコの福音書」(計40回のメッセージ)のさらに詳しい要約は、長野聖書バプテスト教会説教集『神の子、神のしもべ』(B5版、111頁)にまとめられています。