主の十字架の死 マルコ15章16-39節
23-37節には、主イエスが十字架につけられ、息を引き取るまでのことが描写されています。十字架刑は、苦痛と屈辱を与える最も残酷な処刑法です。[16-22節 刑場までの出来事については説教集を見てください]
福音書はその十字架刑の苦しみを生々しく描写することはなく、「十字架につけた」(24,27節)と簡潔に記しています。主が十字架にかけられたのは「午前九時」(25節)であり、主を真ん中にして、右側と左側に二人の「強盗」が一緒に十字架につけられました(27節)。
29-32節には、十字架上の主をあざける三つのグループの人たちのことが描写されています。一つ目は「通りすがりの人たち」です。「頭を振り」とは、軽蔑の動作です。二つ目は、主を十字架の死へと追いやった宗教指導者たちです。先のグループと同様に十字架から降りろと挑発し、自分を救うようにと主をあざけっています。主が十字架から降りられなかったのは、釘付けにされていたからではありません。他人を救うための唯一の道が、自分を救うことを拒絶することだったからです。三つ目は、左右に一緒に十字架につけられた犯罪人たちです(マタイ27:44)。そのうちの一人は、後に自分の罪を悔い改めて、主からパラダイスの約束をいただいています(ルカ23:39-43)。
33-37節には、「十二時」から主が息を引き取るまでのことが描写されています。主が十字架上で語られた七つの言葉のうち、マルコは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(34節「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味)の一つだけを取り上げています。主のこのことばをどのように理解したらいいのでしょうか。二つの可能性が考えられます。一つは、実際には見捨てられていないのに、誤解して見捨てられたとする叫び、もう一つは実際に見捨てられた叫びと理解することです。ゲツセマネの苦しみの祈りは見捨てられることを念頭においたものでした。しかし、今回は実際に見捨てられた体験に基づく叫びです。主は私たちの罪を負って(参 Ⅰペテロ2:24)、さばきを受けてくださったのです(参 Ⅱコリント5:21)。
38-39節には、主の死に関連した二つのことが上げられています。一つは、神殿の幕が真っ二つに裂けたことです。もう一つは、主の死刑執行を監督し、その死の様子を間近に見ていた百人隊長の「この方は本当に神の子であった」(39節)との告白です。
主の十字架の死は、キリスト教を最も特徴づけるものであり、私たちが信じる福音の中心です。罪のない神の子がなぜ、あの凄惨な十字架の死を経験しなければならなかったのでしょうか。聖書は「わたしたちの罪」(Ⅰコリント15:3,ガラテヤ1:4、Ⅰペテロ2:24)のためであったと繰り返し強調しています。
主の十字架の死に関連して、神殿の幕が真っ二つに裂けたことについては先に述べました。大祭司が年に一度、犠牲の血を携えてしか入ることがゆるされなかった至聖所(神の臨在の場)に、私たちは主の犠牲の死によって近づくことがゆるされているのです(参 ヘブル10:19-20、ヨハネ14:6,エペソ3:12)。
パウロは「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14)と言っています。なぜ十字架を誇るのでしょうか。主の十字架の死は、神が罪人たちのために備えられた救いの御業であり、罪人たちに対する神の豊かな愛を示しているからなのです(参 ローマ5:8)。
このメッセージは2024.9.1のものです