総督ピラトの法廷 マルコ15章1-15節

 
 主イエスは、長い夜を過ごされた後、翌日の早朝に開かれた最高法院の決定によって、総督ピラト(在位AD26-36年)のもとへと連行されました(1節)。最高法院には死刑執行の権限がなく(ヨハネ18:31)、総督ピラトから死刑判決を得る必要があったからです。しかし、神への冒涜罪のような宗教的な理由では死刑判決を得ることができないので、告訴の理由を変更したと思われます。

 ピラトの法廷でピラトが主に対して「あなたはユダヤ人の王なのか」(2節)と尋ねていることから、宗教指導者たちが主をローマへの反逆罪で訴えていることがわかります(参 ルカ23:2,5)。ピラトとすれば、ユダヤを統治しているローマ皇帝とは異なる「ユダヤ人の王」の存在は、決して見過ごしにすることはできないからです。

 主はピラトの尋問に対して「あなたがそう言っています」と、「はい」とも「いいえ」とも受け取れそうな曖昧な答えをしています。「王」であるとしても、ピラトがイメージするような「王」ではないからでしょう(参 ヨハネ18:36)。

 ピラトは主がご自分の死をめぐる法廷において何の弁明もせずに沈黙していることに驚きました(5節,14:61大祭司の前でも沈黙している)。ピラトは、宗教指導者たちがローマへの忠誠心からローマにとって危険な男を訴えているのではないということは分かっていました。主に対する「ねたみ」(10節)が理由であることを彼はしっかり見抜いていました。宗教指導者たちは民衆の人気が主に集まっていくのをねたみ、それに伴って自分たちが持つ権威や権益が失われていくことを恐れたのです。

 ピラトは主を取り調べた上で、祭司長たちが訴えるような罪がないことを知っていました。マルコには、ピラトの群衆に対する三つの質問があります(9,12,14節)。そのことばから主に死刑判決を下すことを躊躇し、なんとか釈放を試みようとしていることがわかります(参 ルカ23:16,20,22)。そのために祭りにおいて行なわれていた恩赦を利用しようとしました(6節 参 マタイ27:15,ヨハネ18:39)。しかし、祭司長たちが群衆を扇動して「バラバ」の釈放を求めさせていたことを計算に入れていませんでした。そしてピラトは、ついに群衆の「十字架につけろ」(13,14節)と叫び続ける声を退ける事ができなかったのです。ヨハネでは「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています」(19:12)との群衆の声が紹介されています。ピラトは主に対して、自分には釈放する権威があり、十字架につける権威もあると言っていましたが(ヨハネ19:10)、自らの保身のために(ユダヤ人たちが皇帝に訴えて総督を罷免されることを恐れた)、公正にさばく権威を放棄して(15節「群衆を満足させようと思い」)、バラバを釈放し、主を兵士たちに「引き渡した」(15節)のです。

 ピラトの法廷では主の死をめぐって、ピラトと群衆を巻き込んでの宗教指導者たちとの駆け引きが繰り広げられていることがわかります。そこには、主を十字架の死へと「引き渡した」(パラディドーミ 1,10,15節)者たちの罪の姿があります。しかし、それは主の予告のとおりであり(10:33)、また父なる神のご計画でもあったのです(参 ローマ8:32)。そこには宗教指導者たちやピラトとは全く対照的な愛の動機があったのです。神の救いのご計画は私たちの思いをはるかに超えているのです。


                このメッセージは2024.8.25のものです。