ペテロの主の否認 マルコ14章53-72節



 主イエスが大祭司の邸宅へと連行されたあと、一旦は主を見捨てて逃げてしまったペテロが邸宅の中庭へやってきました。中庭で暖をとっていたペテロは、「大祭司の召使いの女」の「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね」(67節)との問いに、まず、一回目の否認をしてしまいます。召使いの女が、そばに立っていた人たちに「この人はあの人たちの仲間です」(69節)と言ったことばに、二回目の否認をしてしまいます。さらに三回目の否認では、「嘘ならのろわれてもよい」と誓ってしまいます。一回目の否認は、不意をつかれてつい口から出てしまったと弁解できそうですが、三回目の否認に至っては弁解の余地がなく、否認がエスカレートしています。ペテロの否認の後、鶏が二度鳴き、彼は「イエスが自分に話されたことを思い出し」(72節)、「彼は泣き崩れ」たのです。

 ペテロの否認は四つの福音書すべてに出てきます。福音書は、主の一番弟子ともいうべきペテロの失敗をも隠すことなく明らかにしています。ペテロの主の否認から、どのようなことを見出すことができるでしょうか。

 まず、主は私たちの失敗をも生かして、それを益と変えてくださるということです。失敗はだれにとっても辛い経験です。しかし、失敗は私たちの人生の一部であり、失敗のない人はありません。主はペテロの一途な思いとともに、自分の力を過信していることも知っていました。ペテロの過信を打ち砕き、自分の力や知恵に頼らないことを教える必要がありました。

 主はペテロの否認だけではなく、彼がその失敗から「立ち直る」(ルカ22:32)ことも知っておられました。パウロは「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と述べています。ペテロにとって主の否認は、人生最大の汚点ともいうべきできごとでした。しかし、それも神の御手の中にあったことなのです。主は私たちを打ち砕かれます。それは破壊のためではなく、ご自身にとって有益な器とするためです。あたかも陶器師が、古いものを壊して新しい作品を作り上げるかのようにです(参 エレミヤ18:4)。

 使徒の働きには、「聖霊に満たされ」(4:8)、サンヘドリンにおいて居並ぶ宗教指導者たちを恐れずに大胆に証しするペテロの姿があります(4:5-20)。そこには大祭司のしもべたちの言葉におののいたペテロの姿はありません。神は私たちを新しく造り変えるために手痛い失敗をも用いられるのです。自分の力や知恵にたよらず、また人を恐れず主を証しすることを恥じない者となりましょう(参 使徒1:8,Ⅱテモテ1:8,マルコ8:38)。

 次に、悔い改めをとおして回復の道が備えられているということです。ペテロは主の予告のとおりに主を三回否認してしまったとき、「彼は泣き崩れました」。ペテロの涙は、回復に至るための悔い改めの涙となったのです(参 Ⅱコリント7:9-10)。主を裏切ったユダとペテロを比較するときに、ペテロの否認はユダのような計画的なものではなく、むしろ突発的なものでした。しかし、もっと大きな違いは、悔い改めにあったと言っていいでしょう。真の悔い改めは、備えられている赦しに至る信仰へと導きます。ユダは赦されない罪を犯してしまったと後悔して、自死を選んでしまったのです(マタイ27:1-5)。自分の愚かさや醜さに向き合わされると、時には打ちのめされ失望させられてしまいます。しかし、悔い改めを通して赦しが備えられていることを覚えて、信仰をもってしっかりと主を見上げ、回復への道を歩み続けていきましょう。

        このメッセージは2024.8.18のものです。