最後の晩餐と裏切りの予告 マルコ14章12-26節

 
 
 「最後の晩餐」というと、レオナルド・ダビンチの名画を思い浮かべる方も多いでしょう。主イエスが十字架にかかられる前夜に弟子たちとともにされた「過越の食事」をモチーフにしたものです。今回の箇所は、過越の食事の準備(12-16節)、ユダの裏切りの予告(17-21節)、主の晩餐(聖餐式)の制定(22-26節)の三つに分けることができます。

 「過越の祭り」は、イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放されたことを記念する重要な祭りです。ユダヤ暦で第一(ニサン)の月の14日の夕方に子羊が屠られ、その夜に「過越の食事」が行なわれました。14日の当日、弟子たちの方から主に「どこへ行って用意をしましょうか」(12節)と尋ねると、主は、都の中に入ると水がめを運んでいる人に出会うから、その人が入っていく家に行くようにと指示をし、その家の主人が席の整った「二階の大広間」を見せてくれるので、そこで「用意をしなさい」(15節)と二人の弟子を遣わされました。弟子たちは言われたとおりにそこで「過越の用意をし」ました(16節)。

 主は過越の食事の中で、「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります」(18節)と予告されました。弟子たちにとっては衝撃であり、彼らは当惑してひとりひとり「まさか私ではないでしょう」と、主に問いかけました(参 マタイ26:22)。自分が裏切り者ではないと言ってくれることを期待する問いかけです。弟子たちには自分たちの誰かが主を裏切るとは想像だにしていなかったことでした(参 ルカ22:23,ヨハネ13:22)。しかし、主は隠された弟子の心のうちを正確に知っておられたのです。

 主が親しい者(「わたしと一緒に手を鉢に浸している者」)の一人が裏切ることを予告されたのは、後で弟子たちがそのことにつまずかないようにするためであり、また、「ユダ」とは名指しされなかったのは、裏切ろうとしていたユダに対して「お前のしようとしていることは知っている。それでもやめようとしないのか」と悔い改める機会を与えようとしておられたからでしょう。しかし、ユダは最後まで心を頑なにして、裏切りの手引きをするために晩餐の席を出て行ったのです(参 ヨハネ13:30)。

 主はユダの裏切りについて「人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます」(21節)と述べています。つまり、ユダの裏切りの手引きによって死ぬことは、神のご計画であることを明らかにしているのです。ユダに同情する人たちは、ユダは神のご計画に基づいてその役割を担ったのであり、そうする他なかったのだとして責任は問えないはずだと主張します。しかし、ユダは自分の意志に反して裏切ったのではありません。主はユダの裏切りがいかに責任重大であるかを「人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです」(21節)と語っています。また、ユダは後に自責の念を告白していることからも彼の責任をはっきり読み取ることができます(参 マタイ27:3-4)。

 神の主権と人間の自由意志の問題には、私たちにはよく分からない点があることを認める必要があるかもしれませんが、神は人の悪にもかかわらず、また人の悪をも用いてご自身のご計画を実現することができるお方なのです(参 使徒3:17-18、4:27-28、創世50:20)。私たちは自らの罪の責任を神に転嫁することはできません。罪が指摘されるとき、私たちに必要なのは心を開いて悔い改めることなのです。

   [22-26節の「主の晩餐の制定」については、説教集を見てください]


            このメッセージは2024.8.4のものです。