ナルドの香油を注ぐマリア マルコ14章1-11節

 

 新約聖書には、主に油を注いでいる二人の女性が登場します。一人は匿名の「罪深い女」(ルカ7:36-)です。もう一人の女性は、マルコでは「ある女の人」(3節)となっていますが、並行記事のヨハネから(12:1-)、兄弟ラザロを死からよみがえらせていただいた「マリア」であることがわかります。場所はベタニアの「ツァラアトに冒された人シモンの家」(主によっていやしていただいた人かも)です。

 主と弟子たちが食事をしていると、マリアは「純粋で非常に高価なナルド油」の入った壺を割り、主の頭に惜しげもなく、またためらいもなく注ぎました。そばで見ていた「何人かの者」(4節、マタイ26:8「弟子たち」)が憤慨して、「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに」と「彼女を厳しく責め」ました。マリアの惜しみないささげものは、主に対する愛と献身をあらわすものでしたが、弟子たちにとってそれは無駄な浪費にしか映らなかったのです。私たちはマリアの行為からどのようなことを見出すことができるでしょうか。

 まず、主はささげる者の動機を正しく評価し、受け入れてくださるということです。主はマリアの行為を厳しく責める弟子たちに対して、「わたしのために、良いことをしてくれたのです」「彼女は、自分にできることをしたのです」と優しく弁護しておられます。

 主は先に、二レプタをささげたやもめに対して「だれよりも多くを投げ入れました」(12:43)と高く評価しておられました。やもめの「二レプタ」とマリアの「三百デナリ」では金額にとても大きな差があります。しかし、両者に共通しているのは動機です。それは惜しみないささげものであり、愛と献身によるものであったのです。

 愛がなくても与えることができるかもしれません(参 Ⅰコリント13:3)。しかし、どんなに高額であったとしても、心のないささげものを主は喜んで受け入れてはくださらないのではないでしょうか。私たちは神が私たちのためにご自身の愛するひとり子を犠牲にしてくださったことを知っています。そのお方に対する礼拝や献金や奉仕を、お金や時間の無駄だと非難する人がいるかもしれません。しかし、主への愛と献身は無駄となることはないのです(参 Ⅰコリント15:58)。

 次に、マリアの行為は時宜にかなったものであったということです。主は弟子たちに「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません」(7節)と言われました。主は貧しい者たちへの配慮を軽視しているわけではありません。いつでもできることと、その時を逃したらもう二度とその機会はない、今しかできないことがあるとしてマリアの行為を弁護されたのです。

 主はマリアの行為を「埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました」と語っておられます。マリアの油注ぎは、主の埋葬をはっきりと念頭に置いたものではなかったかもしれません。しかし、主は来るべきご自身の死とそれを結びつけて、彼女は「自分にできることをした」として、時宜にかなった行為として受け入れられているのです。 私たちは自分の言葉や振る舞いがどのような結果をもたらすかを分かったうえで、語ったり行動したりしているわけではありません。しかし、主への愛に基づいた言葉や行動が、時宜にかなったものとして主が用いてくださることを期待することができるのではないでしょうか。   


          このメッセージは2024.7.28のものです。