神殿の破壊と主の再臨 マルコ13章1-37節
AIの普及によって私たちの社会はどのように変わっていくのでしょうか。また、私たちはこの変化の時代をどのように生きたらよいのでしょうか。主イエスは弟子たちに将来起こる出来事について語っています。そこから見出される、これからを生きるための大切な指針となるものは何でしょうか。
13章は、エルサレムの神殿を眼下に見渡すことができるオリーブ山で主が語られた長い説教(5-37節)です。そして、マルコにおいて最も難解な箇所と言われています。主は将来起こる二つの出来事について語っています。一つは近い将来の出来事で、神殿の破壊(エルサレムの陥落)についてです(全部を神殿の破壊についてと考える者もいる N.T.ライト)。AD70年、ローマ軍の将軍ティトスによって神殿は破壊され、主の予告は実現しました。もう一つは遠い将来の出来事で、主の再臨(世の終わり)についてです。その時はまだ来ておらず、いつそのことが起こるかは父なる神以外には知らないと主は言っています(32節)。
13章が難解なのは、どの箇所が近い将来について語っていて、どの箇所が遠い将来について語っているのか、学者たちの見解が一致しないからです[私の見解は、神殿の破壊については、5-23節と28-31節。再臨については、24-27節と32-37節]。おそらく二つには重なるところがあり、それを明確に分けないで主は語っておられるからだと思われます。
弟子たちは、壮大な神殿が徹底的に破壊されることを聞いて、いつそれが起こるのか、またそれが起こる前兆となるようなものは何かを主に尋ねました。それに対して主は、偽メシアの出現(6、21-22節)、「戦争と戦争のうわさ」(7節)、自然災害(「地震」や「飢饉」8節)、迫害(9-13節)をあげています。しかし、それらは「産みの苦しみの始まり」(8節)に過ぎないとしています。主があげた事柄は、いつの時代においてもキリスト者たちが直面してきたものと言っていいでしょう。主は人や驚くような出来事に惑わされないように「気をつけなさい」(5,9,23,33節)と繰り返し警戒を呼びかけています。様々な苦しみの中で恐れないで最後まで忠実さを失わないように弟子たちを励ましていることがわかります。
[14節から37節までの解説は説教集をみてください]
20世紀末においては、世界の事象を注意深く観察して世の終わりの日を特定しようとする人々がいて、それに惑わされた人々も多くいました。その反動かもしれませんが、今日終末を語ることがとても少なくなってしまったように感じます。
主ご自身も知らないと言われている日を特定しようとすることは賢明なことではなく、私たちに期待されていることでもありません。私たちに期待されているのは、その日がいつ訪れても良いように備えていることだからです。主の再臨によってもたらされる真の希望を待ち望みながら、常に霊的に目覚めて生きることが大切なのです(参 テトス2:13,Ⅰテサロニケ5:1-11)。
私たちを欺こうとする人々やそのわざに惑わされないためには、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(31節)と言われたお方のことばにしっかりと立つ必要があります。主はご自身のことばの信頼性と確実性を強調されました。これからの時代がどのように変わっていくのかわからないとしても、真に信頼できるお方が共におられるなら、恐れることはないのです。
このメッセージは2024.7.21のものです。