捜し求める神 ルカ19章1-10節
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19章10節)
ザアカイはエリコの町の「取税人のかしら」でした。取税人は同胞から罪人としてのレッテルを貼られて嫌われていました(7節)。その理由は、敵(ユダヤを支配しているローマ)の手先となって同胞から税金を集めていたことと、決められた以上の税金を集めて私腹を肥やしていたからです(参 ルカ3:13)。「ザアカイ」とは「きよい、義人」という意味ですが、彼はその名前とは全く逆の評価を背負いながら生きていたのです。
ザアカイの耳には主イエスに関するいろいろなうわさが入っていたことでしょう。さまざまな病気を癒されたり、わずかのパンで大勢の人を養われたり、罪人とも親しく交わることを厭わない方であることも。もしかすると同業者のレビ(マタイ)が弟子となっていたことも知っていたかもしれません(ルカ5:27)。主はまさに時の人であり、その主がエリコにやって来たというので、この機会を逃さないように、ザアカイはまるで子どものようにいちじく桑の木に登って、主を一目見ようとしたのでした。すると、主の方から彼に近づいて来られ、彼の家に泊り、親しい交わりを申し出られたのでした。
ザアカイは大喜びで主を家にお迎えしました。その彼に大きな変化が起こりました。それは彼の「私の財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します」(8節)との言葉からはっきりと読みとれます。彼に何が起こったというのでしょうか。
ザアカイは神に背を向け、神から「失われた者」でした。主に出会う前の彼と出会った後の彼を比較するとき、彼がどのように「失われた者」であったかが分かります。
まず、主に出会う前の彼の罪意識は明確ではありません。しかし、出会った後の彼は、はっきりと罪を悔い改めています。次に、主に出会う前の彼は愛を知らず孤独でした。しかし、出会った後の彼は、無条件の愛を知り、貧しい者に対して心を開き、愛することができるようになっています。最後に、主に出会う前の彼にとって信頼できるのはお金であり、お金こそ彼の人生の全てでした。しかし、出会った後の彼は、富の奴隷ではなく、富は彼によって正しく管理され生かされようとしています。
神は、御自身に背を向け、罪の中を歩んでいる人を今も捜し求めておられます。神が捜されるのは、その人を愛しておられるからです。神の捜索に気づき、神に立ち返るとき、あなたもザアカイのように変わることができるのです(Ⅱコリント5:21)。