指導と戒規 Ⅱテサロニケ3章4-18節

 テサロニケの教会が直面していた問題は、迫害(1章)、誤った教え(2章)、そして、使徒の指導に「従わない」一部の人々がいたことです(6,14節、11節「あなたがたの中には」)。その人たちは、どういう理由かは正確にはわかりませんが、働けるにもかかわらず働こうとしないで(11、12節)、他の人たちの支援に甘えていて、それが教会としての悪い証しとなっていたようです。

 10節の「働きたくない者は食べるな」という命令は、意味や文脈を正しく理解せずに使うなら、とても残酷なことばとなりかねません。いろいろな事情で働くことができない人たちがいます。私たちだっていつ働けなくなるかわかりませんし、また実際働けなくなる日がいつかは来るでしょう。

 少し前に『引きこもりの真実』(林恭子著)という本を読みました。著者は長く引きこもりをしていた方で、現在は引きこもりの方々ための集いを主催したり、引きこもりの当事者に対する正しい理解や当事者の視点に立った支援のあり方などを呼びかけておられます。引きこもっている方々に対して、怠けているとか甘えていると批判をする人たちがいるかもしれませんが、さまざまな事情でそういう中にある当事者たち、またその家族への正しい理解が大切であることを改めて覚えさせられました。

 テサロニケの信徒たちの多くは、パウロの指導に従順であったことは、4節のパウロの彼らに対する信頼の表明からわかります。そして、パウロは5節で短い祈りのことばを記しています。何を願っているのでしょうか。

 一つは、「神の愛」です。「神の愛」というとき、神の信徒たちへの愛なのか(2:13,16)、信徒たちの神への愛なのか、二つの意味が考えられます。どちらかではなく、両者を切り離さないほうがよいでしょう。神の私たちに対する愛が分かるとき、その人は神を愛するようになり、またそれは隣人への愛となって表わされていくことになるのではないでしょうか。

 もう一つは「キリストの忍耐」です。これも、キリストが示された忍耐なのか、「キリストに対する望みに支えられた忍耐」(Ⅰテサロニケ1:3)なのか、二つの意味が考えられますが、十字架を通して示されたキリストの忍耐は、信じる者たちにキリストの忍耐を得させることになり、迫害を乗り越えさせることになるでしょう。パウロは、人格の中心である「心」が、先の二つに向けられるように祈っています。「心」を通して「神の愛」や「キリストの忍耐」が実現していくことになるからです。

 「怠惰な歩み」の問題は、パウロがテサロニケを訪れた時に、すでに存在していた問題で(10節「あなたがたのところにいたとき、・・・命じました」)、その問題は第一の手紙でも取り上げられ指導されています(4:11-12)。それでも、パウロの指導に従わない者たちがいたので、(11節「何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています」)、第二でもその問題を取り上げなければならなかったのです。

 12節でパウロは、「怠惰な歩みをしている人たち」に直接、「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」と命じています。その際、パウロは「主イエス・キリストによって命じ」ています(参 6節)。パウロは自分たちの指導の権威がキリストにあることを示しています。つまり、その指導を拒絶することは、キリストを拒絶することであると訴えているのです。

 [使徒たちの指導を拒む者たちを、教会がどのように取り扱うべきか(戒規)については(14,15節)、説教集を見てください]


 このメッセージは2022.9.11のものです。なお、テサロニケ人への手紙第一、第二(計14回のメッセージ)のさらに詳しい要約は、長野聖書バプテスト教会説教集『主の再臨を待ち望む』(B5版、40頁)にまとめられています。