主の日の正しい理解 Ⅱテサロニケ2章1-12節

 

 テサロニケの教会が直面していた問題の一つは、外から来る「迫害」でした。そして、もう一つは、内側に混乱をもたらしていた「誤った教え」でした。教会の中には、「主の日がすでに来た」(1節「主イエス・キリストの来臨(パルーシア)」)と信じる者たちがいたのです。

 では、どのようにしてそのような誤った教えが、彼らにもたらされたのでしょうか。パウロ自身もはっきり特定できていないようですが、いずれにしても、パウロは誤った教えによって「落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」、「だれにもだまされたりしてはいけません」と、注意を促しています。

 パウロは、「主の日」がまだ来ていないということを、これから起こる出来事の順序を示すことによって説明しています。「主の日」の前に、「まず背教(共同訳「離反」)」が起こり、「不法の者」が現れるという順序です。「背教」とは、信仰からの離反です(参 Ⅰテモテ4:1)。迫害が外部から入ってくるものとするなら、「背教」は内部から生じるものと言ったらいいでしょう。「不法の者」の「不法」(アノミアス)とは、罪と同義語であり(Ⅰヨハネ3:4)、法に背くことです。「不法の者」が「現れる」ことは、6,8節にも繰り返されていて、その背後にいるのは「サタン」です(9節)。

 「不法の者」は、「滅びの子」と言い換えられています。「滅びに定められた者」という意味です(ヨハネ17:12では、「ユダ」について用いられている)。彼がどのような者であるかについては、「すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗し自分を高く上げ」(共同訳「反抗して、高ぶり」)るとしています。「自分を高く上げる」とは、「高ぶる」ことを意味します。パウロは彼の高慢さに注目しています。そして、次に「自分こそ神であると宣言して、神の宮に座る」とは、自分を神として宣言し、礼拝を要求するということでしょう。

 パウロは「不法の者」はまだ現れておらず、「今」、「引き留めているもの」(6節)、「引き留めている者」(7節)があるとしています。何を指しているのでしょうか。残念ながら、私たちはそれが何を意味しているか、正確には分かりません。なぜなら、今日の読者である私たちに理解できるように説明されていないからです。

 パウロは不法の者が主イエスの再臨によって結末を迎えることを明らかにしています。ここでは再臨を意味する二つの言葉が使われています。一つは「来臨」と訳されている「パルーシア」 (2:1,8)もう一つは「輝き」と訳されている「エピファネイア」(Ⅰテモテ6:14)です。

 パウロは「不法の者」が、奇跡(「力」「しるし」「不思議」は、いずれも奇跡を意味する言葉)を行って滅びる者たちを惑わすことを明らかにしています。主イエスと「不法の者」とに共通するのは、両者に「パルーシア」(2:1,9)と「現れる」(1:7は名詞、2:3,6,8は動詞)という表現が用いられ、奇跡(参 使徒2:22)を行うということです。そのことは、「不法の者」は、あたかも真のキリストであるかのように装って、人々を惑わすことを意味しているように思われます(参「偽キリスト」マタイ24:24)。

 パウロは「滅びる者たち」(10節)が「さばかれる」(12節)ことを述べています。それは、「彼らが・・・自分を救う真理・・・受け入れなかったから」(10節)であり、「真理を信じない」(12節)からです。「真理」とは福音のことです。福音に対してどう応答するかということが、「救い」と「滅び」とを隔てるものとなるのです。厳粛なことです。


         このメッセージは2022.8.28のものです。