キリストの再臨への備え Ⅰテサロニケ5章1-11節

 キリストは今から2千年以上前に、私たちの罪を負って死ぬためにこの地上に人となって来てくださいました(参 ヘブル9:27、Ⅰペテロ2:24)。そのキリストはもう一度この地上に来てくださること(再臨)を約束してくださっています(再臨の時が、2節では「主の日」と言い換えられている)。その再臨に対して私たちはどのように備えたらいいのでしょうか。

 第一に、再臨に備えるとは、その時を予測して特定するということではない、ということです。パウロは、テサロニケの兄弟姉妹たちに、「その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません」と語っています。なぜなら、その内容については、彼らが知っていることだったからです。つまり、パウロは彼らにその時は分からないと伝えていたことが伺えます。主ははっきりと「だれも知りません」と言われています(マタイ24:36)。

 過去を振り返ると、その時代の状況と主が終末の兆候(戦争や飢饉や地震など)とされたこととを照らし合わせて、その時が近いと勝手に推測して、その時を特定した人々が何人もいたことがわかります。「だれも知りません」との主の言葉にもかかわらず、多くの人々が人の言葉に惑わされたことはとても残念なことです。

 その時がいつかを知りたい、との思いは理解できますが、その時が私たちから隠されているのは、神の配慮ではないかと思います。もし、自分が生きているうちにその日がやって来ないとわかったなら、その日に対する期待や緊張感を私たちは失ってしまうのではないでしょうか。神はその時がいつおとずれてもよいように備えることができるために、その時をあえて隠しておらえるのではないでしょうか。

 パウロは、ここで主がどのように来られるか、ということを二つの比喩を用いて説明しています。一つは夜中の盗人です(参 マタイ24:43,44)。もう一つは、妊婦の産みの苦しみ(陣痛)です。両者に共通するのは、その時は突然やって来るということです(突然性)。陣痛には、それから逃れられないことが強調されています(必然制 3節「決してできない」)。

 第二に、再臨に備えるとは、自分が何者(「光の子ども」、「昼の子ども」、「昼の者」)であるかを自覚し、それにふさわしく歩むということです(「目を覚まし、身を慎む」、武具を身にまとう)。


 パウロは、再臨について語るこの箇所において、二つのグループ(信者と未信者)を区別していることがわかります。3節の破滅を免れることができない「彼ら」に対して、4節では「しかし、・・・あなたがたは」と区別し、5節の光の子ども、昼の子どもである「あなたがた」に対して、6節には「ほかの者たち」を区別しています。二つのグループの区別は、「光」と「闇」や「昼」と「夜」という対比にもみることができます。

 パウロは、真の光であるキリストを信じて「光の子」とされたテサロニケの兄弟姉妹たちに(参 エペソ5:8、ヨハネ12:35,36)、光の子として「眠っていないで」(ここでの「眠る」は4章13節のような死の意味ではなく、霊的、道德的無関心の意味)、「目を覚まして、身を慎んでいましょう」と、警戒心と自制心を勧めています。また、さらに「昼の者」(8節)として、武具の比喩を用いて、「信仰と愛と望み(希望)」(参 1:3,3:6)を保ち続け、再び自制心を呼びかけています。

[第三に、再臨に備えるには、兄弟姉妹たちが互いに支え合うということが必要だということです。— このポイントの説明は説教集を]


                        このメッセージは2022.6.5のものです。