死は終わりではない Ⅰテサロニケ4章13-18節

 死後について、私たちはどのように考えればいいのでしょうか。死は終わりを意味するのでしょうか。そうでないなら、死の向こうには何があるのでしょうか。すでに死んだ人たちはどこにいるのでしょうか。そして、私たちはその人たちと再会することができるのでしょうか。

 13節の「眠っている」ということばは、「死」の婉曲表現です。14節に「イエスにあって眠った人たち」とあり、15節にも「眠った人たち」とあります。再臨前にすでに亡くなったクリスチャンたちの事が取り上げられていることがわかります。

 パウロはテサロニケの兄弟姉妹たちに、「あなたがたに知らずにいてほしくありません」と否定的な言い方をして、ぜひ知って欲しいと訴えています。彼らの中には「望みのない他の人々のように悲しみ」に陥っていた人たちがいたからです。パウロは悲しみを否定しているのではありません。愛する人を失って悲しむことは当然のことであり、主イエスもラザロの死に際して涙を流しておられます(ヨハネ11:35)。パウロがここで否定しているのは「絶望的な悲しみ」のことです。

 テサロニケのクリスチャンたちが、再臨前になくなった兄弟姉妹たちのことでなぜそのような悲しみに陥っていたのかよく分からないところがありますが、パウロが死後について確信をもって言えるのは、「主のことば」(15節)に基づいています。また、主イエスが「死んで復活された」ことにあります。なぜなら、主の復活は、主を信じる者の復活を保証するものであるからです(参 Ⅰコリント6:14,15:20-23,Ⅱコリント4:14)。14節の「神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです」には、復活のことばがありませんが、その暗示があり、16節には「よみがえる」ことが約束されています。主の再臨のときに、すでに亡くなったクリスチャンたちがよみがえり、その時生きているクリスチャンは空中に引き上げられ、「いつまでも主とともにいることになる」と約束されています(17節)。 

 パウロは18節で、「これらのことばをもって互いに励まし合いなさい」と命じています。主のことばと主の復活を通して、死が終わりではないことの確証が与えられています。この箇所には、私たちの好奇心を満たす終末の出来事がどのように展開するのかということは記されていません。しかし、互いに励まし合うに十分なことが明らかにされています。

 ずいぶん昔のことになりますが、ある教会の墓地を訪れる機会がありました。その教会の墓石には大きな字で「再会」と刻まれていました。すでに亡くなったクリスチャンたちの霊は今主とともにあり、主の再臨のときにからだをもってよみがえるのを待っています。そして、その時生きているクリスチャンたちと再会することができるのです。そして、共に主との永遠の交わりの中に入れられるのです。

 一世を風靡した歌『千の風になって』の中に「私のお墓の前で泣かないでください。・・・」の歌詞があります。すでに亡くなった愛する者たちは自然を駆け巡る風となって生きている者たちを見守ってくれているのでしょうか。どこに慰めを見いだすかは自由がありますが、「主のことば」に立つなら、そこには残念ながら真の慰めがないと言わなければなりません。


                 このメッセージは2022.5.29のものです。