神に喜ばれる歩み Ⅰテサロニケ4章1-12節

 先にパウロは自分たちが宣教において、人を喜ばせるのではなく、神を喜ばせようとしていたことを明らかにしていましたが(2:4 参 2:15)、ここでは自分たちに学び、神に喜ばれる歩み(生活)をはじめているテサロニケの兄弟姉妹たちに、さらにそれを継続するように勧めています(1節)。

 「神に喜ばれる歩み(生活)」を考える時に、それは神が命じていることを行う、神が禁じていることを行わない以上のことであることを理解する必要があるのではないでしょうか。なぜなら、神が命じていることを行いながら、神が喜ばれない動機で行っているということがあるからです。旧約のヨナの例で考えてみましょう。ヨナは最初ニネベへの宣教命令に従いませんでした。しかし、二回目にはその命令に従いました。しかし、彼の宣教によってニネベの人々が悔い改めて滅びを免れたとき、彼はひどく怒りました。たしかに、ヨナは行動では神の命令に従ったのですが、神が喜ばれるように行ってはいなかったのです。神に喜ばれる歩みは、神のみこころを行う私たちの動機をも含むものであるということを忘れてはならないでしょう。

 神に喜ばれる歩みを考えるときに、私たちは神が命じている事柄(規則)に焦点を当てがちですが、それを命じておられる方とその関係性に焦点を当てることが大切ではないでしょうか。なぜなら、規則に焦点をあてるとき、クリスチャン生活を律法主義的な鋳型に押し込み、喜びを失わせてしまう方向に向かわせてしまうように思うからです。神は私たちを罪から救うためにご自身の御子を犠牲にしてくださったお方です。神の愛が分かってくるなら、私たちはその愛に応えてどのようにして神を喜ばせることができるだろうか、という歩みを考えていくのではないでしょうか。神の愛を知るクリスチャンは、「神を知らない異邦人のように」(5節)歩み続けることはできないでしょう。

 神に喜ばれる歩みをするためには、神のみこころが何かをはっきりと「知る」(4節「わきまえる」)必要がありますが、パウロは三つの領域を具体的に取り上げています。一つ目は性(3-8節)、二つ目は兄弟愛(9,10節)、三つ目は仕事(11,12節)です。

 神に喜ばれる歩みは性的な聖さにあらわされます(参Ⅰペテロ1:15,16)。7節では救いの目的という面からそのことが強調されています。3節には「淫らな行いを避け」(参 Ⅰコリント6:18、エペソ5:3)とありますが、「淫らな行い」(ポルネイア「ポルノ」の語源となった言葉)とは、あらゆる性的な不道徳を指します。性は神が創造されたものであり、良いものです。そして、神はその性を一夫一婦制の結婚という絆の中で祝福しておられます。性を結婚という絆に限定すると、時代遅れで厳しすぎるという声が聞こえてきそうです。しかし、神が性を結婚の絆の中に限定しておられるのは、私たちから喜びを奪うためではなく、性にまつわる様々な問題(性感染症、望まない妊娠や中絶、家庭の崩壊、別れ話のもつれなど)から、私たちの体や心を守るためなのです。神は性的な誘惑に打ち勝つために聖霊を与えてくださった上で(8節)、警告してくださっています(参 ヘブル13:4)。その警告を拒みながら、神に喜ばれる歩みをすることができないのは当然のことです。

 性の領域だけではなく、私たちが神に喜ばれる歩みをしようとするなら御霊によって歩む必要があるのです(参 ガラテヤ5:16-、ローマ8:4)。


       このメッセージは2022.5.22のものです。