テサロニケ人の教会 Ⅰテサロニケ1章1-3節

 パウロ書簡の一つである「テサロニケ人への手紙」の講解説教に入っていきましょう。まず、「テサロニケ」の歴史や地理について簡単に説明した後に、その地にどのようにして教会が誕生したのか、その教会に送られた手紙の特徴や目的、その教会はどのような霊的な状態にあったのか、ということを順次みていきましょう。

 「テサロニケ」(現在ギリシアのテッサロニキ)は、ギリシアのアレクサンドロス大王の死後、将軍であったカサンドロスがマケドニアの王となり、自分の妻の名前テサロニカにちなんで名づけられました(BC315年ごろ)。後にローマの時代になるとローマの属州マケドニアの州都となります。BC42年には、自由都市となり地方自治が認められました。

 テサロニケは東方に向かうローマの大街道であるエグナティア街道沿いにあり、またテルマ湾の奥に位置する良港でもあり、交易や軍事において重要な都市でした。

 テサロニケに教会が誕生した経緯については、使徒17章の前半を読むとわかります。パウロは第二次伝道旅行を「シラス」(1節「シルワノ」)と共に開始します(使徒15:40)。その途上のリステラで「テモテ」が加わり(使徒16:1-3)、トロアスではルカが加わっています(使徒16:11)。当初、パウロたちはマケドニアに行くことを考えていませんでしたが、幻の中でマケドニア人の叫びを聞き、マケドニア伝道を神が導いておられると確信しました。それでエーゲ海を渡り、ネアポリスに上陸し、エグナティア街道沿いに進んでピリピに行きました(使徒16:12-)。そこではリディアや看守の家族が救いに導かれました。その後、パウロたちはテサロニケに進み、「ユダヤ人の会堂」で「三回の安息日にわたって」、聖書からキリストの死と復活を語り、「イエスこそキリストです」とメッセージしました(使徒17:1-)。それを聞いて「神を敬う大勢のギリシア人たちや、かなりの数の有力な婦人たち」がパウロたちに従いました。それを妬んだユダヤ人たちは暴動を企て、町を混乱に陥れようとしました。それで、パウロたちはテサロニケでの働きを継続することが困難となりベレアへと逃れました。しかし、テサロニケのユダヤ人たちは執念深く追って来て、迫害の手を緩めようとはしませんでした。それで、パウロはアカイアのアテネに逃れ(使徒17:5)、そこからコリントに行きました(使徒18:1)。

 パウロは、やむなく働きの途中でテサロニケの教会を去らなければならなかったので、教会のことがとても心配でした。自ら彼らの所に出かけようとしましたが、それは叶いませんでした(2:18)。それで同労者である「テモテ」をテサロニケに派遣し、彼らを励まし、彼らの様子を知ろうとしました(3:1-)。パウロがコリントにいたとき、テモテとシラスがコリントにやってきたことが分かっていますので(使徒18:5)、テサロニケから戻ってきたテモテから情報を得て、第一の手紙を書いたと推測できます。

 誕生して間もないテサロニケの教会はユダヤ人たちや同胞からの迫害の中にありました(2:14、3:3-4)。パウロは彼らを励ますために、またテモテから受けた情報をもとに彼らの信仰生活を指導するためにこの手紙を記しました。具体的には、再臨に対する正しい理解とそれをどのように待ち望むべきか、聖さを保つこと(4:3-、5:23)、怠惰な生活に陥らないこと(4:11)、また指導者に対する態度(5:12,13)や「悪から離れ」「善を行う」こと、「喜び」や「祈り」や「感謝」の重要性などについても語っています。・・・

・・・[手紙の冒頭の挨拶やテサロニケのクリスチャンたちのことを祈りに覚えながらパウロがどのような感謝をささげているのかは、説教集で確認ください]


               このメッセージは4月3日のものです。