見えない神の御手 エステル5,6章

 その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持ってくるように命じた。そしてそれは読まれた読まれた(エステル記6章1節)。



 5章と6章には、それぞれ自分の願いをもって王に近づこうとしている対照的な二人がいます。エステルとハマンです。エステルは同胞であるユダヤ人のいのちを救うために、自分のいのちを犠牲にする覚悟をもって近づいています。そこには同胞への愛と祈りがあります。一方、ハマンはモルデカイのいのちを奪うために、醜い憎しみや利己心を覆い隠して近づいています。これまでの状況からするとハマンの方が有利なように見えますが、6章1節の「その夜、王は眠れなかった」との小さな出来事がこの後の形勢を大きく変えるターニングポイントになっていることがわかります。何気ない出来事が周到なハマンの企てを覆すことにつながっていくのです。

 エステル記は、「神」という言葉が出てこないことで知られています。しかし、ここに見えない神の御手を見ることができます。何でも自由に意志決定できる絶対君主さえも神は支配し、ご自身の御手を働かせることができるのです(参 箴言21:1)。では、具体的に私たちはどのような点において神の御手を見ることができるでしょうか。

 一つ目は、エステルが王に謁見が許されて、二回の宴会に王とハマンを招待することができたということです(これでハマンとの対決の舞台は設定されている)。

 二つ目は、王が眠れなかったことです。そして、王の暗殺計画を未然に防いだモルデカイに何の報償も与えていなかったことに王が気づいたことです(もし、王が他の「記録の書」を読んでいたならモルデカイのことを気にとめることはなかったでしょう。また、ペルシアにおいて忠誠心のある者に対して報償が与えられることは重要視されていたにもかかわらず、暗殺計画を通報したモルデカイにその時、報償が与えられなかったことにも気づかなかったでしょう)。

 三つ目は、モルデカイにどのような栄誉がふさわしいかと考えていたときに、モルデカイの処刑の許可を求めにやって来たハマンの進言する栄誉を王が命じて、それを実行させたことです(このことによってハマンはモルデカイの処刑許可を王に求めることはできなくなってしまった)。

 最後は、(7章の出来事になりますが)、ハマンがモルデカイをかけるために用意した柱に自分がかけられたことです。

 エステルは同胞の祈りに支えられながら、慎重な言動によって事を進めようとしていますが、神はご自身の民を救うために、その危機が企てられる前からエステルを王妃の座へと導き、モルデカイに報酬が即座に与えられることを控えておられたのです。

 事は偶然によって導かれているようにみえてもそうではありません。私たちの日常の一つ一つの出来事が将来の私たちにとってどのような意味をもっているのか分からないとしても、神のご自身の子どもたちに対する愛は変わることはありません。自分の悟りに頼るのではなく(参 箴言3:5)、祈りをもってそのお方の導きの御手を信頼して歩んでいきましょう。


                      このメッセージは2021.9.29のものです。