とりなしの決意 エステル4章1-17節

 ・・・ 私は、死ななければならないのでしたら死にます(エステル記4章16節)。

 これまで宴席の場面が続いていました。しかし、この四章ではそれとは対照的な「断食」が出てきます(3節,16節には二回)。ユダヤ人を根絶やしにせよとの法令発布を受けての反応です。

 1節には、法令発布の原因をつくったモルデカイの反応があります。「衣を引き裂き、粗布をまとい、灰をかぶ」るとは、深い悲しみや苦悩を表わすものです(参 創世記37:34、Ⅱサムエル3:31)。

 3節は、法令に対する帝国下に住むユダヤ人たちの反応です。悲嘆を表わす行為は同じですが、そこには初めて「断食」という言葉が出てきます。「断食」とは、神の前にへりくだり、食欲を抑制して神を慕い求める行為といったらいいでしょう。断食と祈りは深く関係していて、嘆願や悔い改めの際に行われています(参 Ⅱサムエル12:16、ネヘミヤ9:1-)。ヨエル書2章12節には「断食と涙と嘆き」が悔い改めの呼びかけとして出てきます。ユダヤ人たちの断食には、この危機からの解放を求めるだけではなく、捕囚を経験した民の子孫として、神と自分たちとの関係を改めて問い直し悔い改めの機会としたということではないでしょうか。

 この四章には、エステルの死を覚悟してのとりなしの決意に至る経緯が記されていますが、エステルから私たちはどのようなことを見いだすことができるでしょうか。

 一つは、支援(助け)を要請しているということです。ある人にとっては自分の弱さを認めて誰かに支援を求めることは抵抗があるかもしれません。エステルの同胞への「断食してください」は、祈りの支援を求めることばです。エステルの5章以降の慎重な言動とその結果は、彼女の祈りと同胞の祈りに支えられたものであると言っていいでしょう。以前、ペテロのために教会が「神に熱心に祈り続けていた」(使徒12:5)という箇所からメッセージしました。ペテロの救出の背後には教会の一致した祈りがあったのです。パウロは執筆した手紙の中で諸教会のために祈っていますが、自らも祈りの要請をしています(参 エペソ6:19)。パウロの大きな働きの背後には、彼をささえる祈りがあったのです。人に知られたくない祈りまでもオープンにする必要はありませんが、弱さを素直にみとめて信頼できる人たちに支援を求めることは大切なことではないでしょうか。

 もう一つは、神の自分に対する目的(使命)に自分を委ねているということです。言い換えるなら、神のみこころを受け止め、それに自分を明け渡しているということです。神が救いにあずかったクリスチャンたちをすぐに天に召されないのは、この地上にご自身の目的をもっておられるからです。エステルはモルデカイから、神は王妃という立場を用いて同胞を救おうとしておられるのではないか、との説得を受けたとき、そのことを神の自分に対する目的として受け止め、とりなしの決意をしています。

 神の自分に対する目的に自分を委ねた人の一人としてマリアを挙げることができるでしょう(ルカ1:38)。そして、何と言ってもその真の模範は主ご自身ではないでしょうか。私たちを罪の滅びから救うために、遣わされた父なる神のみこころに従って、ご自身のいのちを犠牲にしてくださったからです。エステルの場合は、同胞を滅びから救うために死ぬ覚悟はありましたが、実際に死ぬことはありませんでした。しかし、主は実際にいのちをささげてくださったのです。

 神の自分に対する目的(使命)と言うと、何か特別な奉仕への召しを考えるかも知れませんが、そればかりではありません。私たちがそれぞれの置かれたところで、神を愛し隣人を愛することもそうなのです。


                         このメッセージは2021.9.19のものです。

You need to add a widget, row, or prebuilt layout before you’ll see anything here. 🙂