ナバル 高慢で愚かな資産家 Ⅰサムエル記25章
愚か者は心の中で、「神はいない」と言う。彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。善を行う者はいない(詩篇14篇1節)。
聖書にはさまざまな資産家が登場しますが、今回はその中の「愚か者」(25節)という意味の名前を持つ「ナバル」という人物を取り上げましょう。彼については「頑迷で行状が悪かった」(3節)とあります。彼がそのような者であったことは、恩を仇で返しダビデの激怒を引き起こしながら、宴会を開き上機嫌で酔っ払っている姿にみることができます(36節)。
さてナバルについて語る前に、このときダビデがどのような状況にあったかを説明しましょう。ダビデはサウル王の忠実な家来として仕えていましたが、サウル王のねたみや猜疑心のために命を狙われ、逃亡生活を余儀なくされていました。六百名の部下たちを養いながらの逃亡は非常に困難なものであったはずです。そのようなときダビデは、以前羊を略奪などから守ったことのあるナバルが、羊の毛の刈り取りをしていることを知って、部下を遣わし丁寧に食糧を求めました。しかし、ナバルはその部下たちを冷たく追い返したのでした。そのことを聞いたダビデは、怒りに身を任せてナバルに属する者たちを皆殺しにしようと決意しました。もし、賢明なアビガイルのとりなしがなかったならば、ダビデは行きすぎた復讐を成し遂げてしまっていたことでしょう。
では、ナバルがどういう人物であったのかを見ていきましょう。
まず、彼は高慢な者であったということです。ナバルは、ダビデたちに資産を守ってもらいながら感謝もなく、あたかもすべては自分のものだ(参 11節)、わたしが自分の力でこの資産を得たのだと言わんばかりです(参 申命記8:17)。もし誰かが資産家であるとして、その人のがんばりだけでなく神の恵みや多くの方の助けによっているということを忘れるなら、その人は高慢になってしまうでしょう。
彼が高慢であったことは、周りの忠告に耳を貸すような者でなかったことからも分かるでしょう。ナバルに仕える若者の主人についての「だれも話しかけることができません」(17節)との言葉や、妻アビガイルが謝罪ととりなしのためにダビデのもとに出かけることを夫に話さなかったのは(19節)、そのためではなかったでしょうか。
第二に、彼は利己的で近視眼であったということです。ナバルは、今ダビデが王から逃亡しているという現状しかみていません(10節)。ですから、そのような者を助けて何の得があるだろうか、と見下しているのです。一方、妻のアビガイルは今は逃亡の身であっても、神さまの御手によってダビデが必ず王となる方であると見ています(28,30節)。もし、ナバルが妻のようにダビデを見ることができていたなら、ダビデの使者を冷たく追い返すことはしなかったでしょう。
最後に、彼は人生において神を視野に入れていなかったということです。ナバルを見るときに、主イエスが語られたたとえ話に登場する「愚かなお金もち」の姿とダブって見えてきます(ルカ12:16-)。金持ちは、神から「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」との宣告を受けます。ナバルは、妻からダビデによって皆殺しにされそうだったことを後から聞いたとき、「気を失って、石のようになり」、その後神の裁きによって命を取り去られます(37,38節)。神に依存して生きていながら、神を無視して生きる者は愚かであり、最終的には神の裁きを免れることはできないのです。
このメッセージは2020.9.27のものです。