エゼキエル(2) 主の栄光の退去と帰還
すると見よ、イスラエルの神の栄光が東の方から現れた。・・・主の栄光が東向きの門を通って神殿に入ってきた。・・・主の栄光が神殿に満ちていた(エゼキエル43章2,4、5節)。
エゼキエルはバビロンの地で、自分が預言していたとおりにエルサレムが陥落し、祖国が滅ぼされたとの知らせを受けました(33:21)。彼の預言はエルサレム陥落前(4-24章)と後(33-48章)では主題が異なっています。彼がどのようなメッセージを語ったのかを、彼が見た幻や象徴的行動(演じられたメッセージ)のいくつかを取り上げて見ていくことにしましょう。また、そのメッセージと主の栄光との関係も見ていくことにしましょう。
エルサレム陥落前のエゼキエルのメッセージは、エルサレム(ユダ)への裁きが中心です(もちろんその背後には、「立ち返れ」(14:6,18:23)という悔い改めのメッセージがあることを見落としてはなりませんが)。では、なぜエルサレムは裁かれなければならないのでしょうか。8章から11章にはエゼキエルが見た一連の幻が記されています。エゼキエルは、体はバビロンに居ながら主の御手によってエルサレムへと連れて行かれ(8:1-3)、エルサレムの神殿における忌み嫌うべき偶像礼拝の様子を見させられることになります。もちろん、エルサレムの罪は偶像礼拝だけにとどまるものではありませんが。それ故に9章では裁きのために6人の御使いが呼び寄せられています。10章には、炭火がエルサレムの上にまき散らされる幻がでてきます。それはエルサレムへの裁きを意味しています。主の栄光との関係を見るならば、8章4節では「かつて平地で見た幻と同じような、イスラエルの主の栄光があった」(3:23)とありますが、10章には主の栄光が神殿の敷居から東の門の入り口へと移動し(18,19節)、11章23節では神殿の東の門から出て東の山(オリーブ山)へと去っていく様が描写されています。神殿から主の栄光が去ることは、神殿から神の臨在がなくなることを意味し、それは神の裁きがエルサレムに確実にもたらされることを象徴しています。エゼキエルは、バビロンにおいて主の栄光を見て、ひれ伏しました(1:28、3:23)。主の臨在はエルサレムに限定されるものではなく、主はどこにあってもご自身を礼拝する民とともにいてくださる方です。しかし、ご自身に頑なに背を向け続ける民には、そこを離れざるを得ないのです。
エルサレム陥落後のエゼキエルのメッセージは、イスラエルの回復と希望のメッセージへ移っていきます。37章に記されている干からびた非常に多くの骨の復活の幻は、やがて民が捕囚から帰還し、国を復興することを示しています。長く放置された多くの骨は、国が滅び、捕囚となってしまったイスラエルの民の再起不能の絶望状態を象徴しています。しかし、エゼキエルがその骨たちに神の言葉通りに預言すると、肉体は再生し、そこに「息」が入り、生きたものとなったのです。
40章以降には、エゼキエルは再びエルサレムへと連れて行かれて、新しい神殿と相続地の幻を見ます。そこには民の神礼拝の回復が示されています。43章には、去った「主の栄光が東向きの門を通って入って来」て、主の栄光が神殿に満ちているのを見ます(4,5節)。神は民に新しい心と新しい霊をお与えになって(36:25-27)、ご自身を礼拝する人々のもとに来て住まわれるのです。
神は今日、教会のうちにご自身の臨在を約束してくださっています。教会を教会とするのは、会堂ではありません。神を愛し、心からご自身を礼拝する人々のうちに住まわれ、ご自身の栄光を現そうとしておられるのです。
このメッセージは2020.8.9のものです。