エレミヤ 預言者の苦悩とメッセージ

 「なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」(エレミヤ20章18節)


 エレミヤはヨシヤから最後のゼデキヤまで(五人)の王の治世にわたって預言者として活躍しました。彼は祭司の家系に生まれ、本来なら祭司となるはずだったでしょう(1:1)。しかし、神は彼を生まれる前から預言者として定めておられ、その働きへと召されました。それはヨシヤ王の治世の13年(BC627年)のことでした。

 エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれます。その涙の多くは自分のためではなく、背信のために破滅へと向かっていく国と同胞のためのものでした(参  9:1-)。主イエスは、エルサレムが背信のゆえに滅ぼされるのを知っていて、エルサレムのために涙を流されました(ルカ19:31)。エレミヤの涙は、背信からご自身のもとに立ち返ろうとしない神の悲しみをあらわしたものであったとも言えるのではないでしょうか。

 エレミヤは神から預言者としての召しを受けたとき、「私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません」と、若さと未経験を理由に尻込みしました。それに対して主は「まだ若い、と言うな」と言われ、人々を恐れずに、ご自身が遣わす所へ行き、ご自身の命じることばを語れと命じられ、彼が預言者として立つことができるようにご自身の臨在と守りを約束しておられます(8、19節)。

 エレミヤは四十年以上にわたる預言者としての厳しい活動を生き抜くために結婚して家庭を持つことがゆるされませんでした(16:1-)。指導者たちばかりではなく親しい者たちや郷里の人々からの敵意は彼を孤独にさせたことでしょう。厳しい預言者活動における苦悩を伺うことができる言葉を20章7節以降に見ることができます。

 エレミヤは自分の心のうちを神に正直に吐露しています(12節)。召しに忠実に従って神のことばを語れば語るほど、人々から嘲られ、物笑いとなっていて、それが耐えがたいものとなっています(8,18節)。神に惑わされて預言者になったのだろうか、という思いになっています(7節)。また、生まれたことへののろいのことばさえも見ることができます。それは神と背信の民との間に立ち続けなければならなかった預言者としての厳しさを明らかにするものです。エレミヤは、もう神の言葉を伝えたくないという思いの一方で、神のことばが彼のうちで火のように燃え上がり、彼が口を開かなければ彼自身を焼き尽くしてしまうような思いにもなっています。神の臨在と神のことばに支えられてきたことも知っているからです。

 7章で、エレミヤは主の宮に礼拝に集って来た人々に対して「あなたがたの生き方と行いを改めよ」(3節)と語っています。人々は主を礼拝することを完全に止めたわけではありません。しかし、その信仰は生活に影響を与えないものとなっており(6,9、18,30,31節)、生ける神の宮があるから安全だという誤った安心感に浸っている状態でした(4節)。エレミヤは、かつてシロにあった幕屋の存在がペリシテ人たちの侵入を防げなかったことを思い起こさせ、悔い改めないなら同じようなことがエルサレムでも起こると警告しています(12-15節)。

 エレミヤは前半の預言において、民を罪に向き会わせ、悔い改めて神に立ち返らせようとしています。しかし、彼の努力は報われることはありませんでした。私たちの働きがたとえ願う結果が得られなかったとしても、それは空しいということにはなりません(参 Ⅰコリント15:58)。エレミヤが忠実に神のメッセージを伝えたように、私たちも委ねられたメッセージを忠実に伝えていきましょう。

                 このメッセージは2020.7.19のものです。