富んでいる人たちへの指導 Ⅰテモテ6章17-19節

 

 今の世で富んでいる人たちに命じなさい(Ⅰテモテ6章17節)。

 世界を見渡すときに、私たちよりもはるかに富める人たちがいる一方で、私たちよりもはるかに貧しい生活をしている人たちが大勢います。自分のことを富んでいないと思っても、日本に生活している私たちは「富んでいる人たち」の一人ではないでしょうか。とするなら、今回のテーマを私たちに関係のないこととすることはできません。

 17-19節では、富や豊かさを意味する四つの単語が繰り返されていて、この段落のテーマが富や金銭であることが分かります。パウロは先に、にせ教師たちへの文脈において、「金持ちになりたがる人たち」が陥る貪欲に警告しました(9,10節)。ここでは再び同じテーマに戻って、今度はすでに「富んでいる人たち」に、彼らが陥る危険性を警告しています。

 富んでいる人たちが陥る危険性の一つは「高慢」です。「高慢」とは「自分を高く評価する」ことです。富はしばしば優越感に浸らせ、自分よりも貧しい人たちを見下す傾向に陥らせてしまいます。出エジプトしたイスラエルの民は、約束の地に入って豊かになったとき「心が高ぶ」らないように警告されていました(申命8:14)。高慢にならないためには、富が与えられたとき、自分の知恵や力がそれをもたらしたのだと考えるのではなく、神が与えてくださった恵みであるとしっかり受け止める必要があります。

 もう一つの危険性は「富に望みを置いてしまう」ということです。言い換えるならば、偽りの安心感を持ってしまうということでしょう。主が話されたたとえに登場する「愚かな金持ち」(ルカ12:16-)は、モノに拠り所を置いて、安心感を得ていたので「愚か」と言われているのです。

 ではなぜ、富に望みを置いてはならないのでしょうか。一つは、富は「頼りにならない」からです。主は、地上に蓄えた宝がいつ失われてしまうかもしれない「不確かなモノ」であることを指摘されました(マタイ6:19)。

 もう一つはモノが与える望みはこの世止まりであり、真の望みは与えられたモノにではなく、与えてくださったお方にあるからです。パウロは神を、「すべての物を豊かに与えてくださる」方としています。

 パウロは富んでいる人たちが陥る危険性を指摘したあと、彼らがその富をどのように用いるべきかを語っています(18節「善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え」)。貪欲なにせ教師たちの関心は今豊かになることでしたが、パウロは未来(来るべき世)を見据えて生きるようにと指導しています。「来るべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え」るとは、主が勧められた「天に宝を積む」ことと言い換えることができるでしょう(マタイ19:20,ルカ12:33)。

 ある夫婦が長距離の引っ越しをしました。彼らは当座の生活に必要な物だけを手元に残して、家にあった大切にしていた品々(宝)を荷造りして引っ越し先に送りました。そして、数週間後に二人はそこに行くことを計画していました。天に宝を積むためには、夫婦がしたように今ある宝を前もって送っておく必要があるのです。

 主イエスは「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もある」(マタイ6:21)と言われました。「今の世」だけを考えて、「来るべき世」に蓄える事に関心がないとするなら、私たちの心は「今の世」に釘付けにされているということではないでしょうか。

 このメッセージは2021.5.23のものです。なお、「テモテへの手紙第一」のメッセージ(計17回)のさらに詳しい要約は、長野聖書バプテスト教会説教集『立派に戦いなさい』(B5版、36頁)にまとめられています。