にせ教師と貪欲への警戒 Ⅰテモテ6章3-10節

 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出で、多くの苦痛で自分を刺し貫きました(Ⅰテモテ6章10節)。

 パウロは、6-10節において(3-5節のにせ教師については、後でまとめる予定の説教集『立派に戦いなさい』を見てください)、満足と貪欲を対比させて、貪欲の危険性を警告しています。

 パウロは、貪欲への警戒を促していますが、貧しいこと(貧困)に満足すべきだと言っているのではありません。生活のための基本的な必要が満たされているなら満足するようにと言っているのです(8節)。

 7節の「私たちは、何もこの世に持ってこなかったし、また何かをもって出ることもできません」とは、私たちが持っているもののすべては与えられたものであり、私たちが今所有していると思っているものは、実は私たちのものではないということです。

 ある裕福な女性の葬儀で司会を務めた牧師は、好奇心旺盛な人々から彼女がどれだけ遺したかを尋ねられたとき、「彼女はすべてを遺しました」と答えました。すべてを遺して、あの世に旅立たなければならないとするなら(参 詩篇49:17)、私たちはみな管理者にすぎないということです。管理者にすぎないという立場を自覚することは貪欲にならないために大切です。もし委ねてくださったお方に責任を負っていることを意識するなら、「自分のために、地上に宝を蓄える」(マタイ6:19)のとは違った生き方へと私たちは導かれるでしょう。

 パウロは貪欲さの危険性について、それがどのような結果をもたらすかという視点から警告しています。一つは、「滅び」へと導くということです。パウロは「お金持ちになりたがる人たちは、「誘惑と罠」と「多くの欲望」に陥ると指摘しています。伝道者の書5章10節には「金銭を愛する者は金銭に満足しない」とあるように、お金をもっと得たいと思うなら、不正な手段を使ってでも、罪を犯してでもと誘惑され、実際に罪を犯すこととなってしまうでしょう。そして、その最も悲惨な結末は、「滅びと破滅」へと沈みこんでしまう、つまり、神が恵みによって備えてくださっている「いのち」から遠ざけられてしまうということです(参 マルコ10:17-23)。主は「人はたとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか」(マルコ8:36)と言われました。貪欲の代償はなんと大きいことでしょう。

 もう一つは、「信仰から迷い出て」しまうということです。パウロは、「ある人は」と言って、そのような実例を知っていました。パウロは「金銭が」とは言わず「金銭を愛することがあらゆる悪の根だからです」と言いました。主は「だれも、二人の主人に仕えることはできません。・・・あなたがたは神にも富にも仕えることはできません」(マタイ6:24)と言われました。神に仕えるなら富に惑わされることなく、富を用いることができるでしょう。しかし、富に仕えるなら、支配すべき人が富に支配され、正しい信仰の道を踏み外してしまうことになるでしょう。主は「種蒔きのたとえ」において、いばらの中に落ちた種が実を結ばなかった理由を説明する中で、麦の成長を阻んだものとして「富の惑わし」(マルコ4:19)を上げておられます。

 各自の生活レベルによって、「必要なもの」の基準は異なるかも知れませんが、主が言われた「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい」(ルカ12:15)とのことばを受け止めながら、「満ち足りた心を伴う敬虔」(6節)を追い求めていきましょう。

                                    このメッセージは2021.5.2のものです。