すべての人のために祈りなさい Ⅰテモテ2章1-7節

 そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい(Ⅰテモテ2章1節)。

 パウロがここでテモテをはじめ彼が牧会する教会に、「何よりもまず」と勧めているのは、祈ることです。四つの名詞である「願い」「祈り」「とりなし」「感謝」は、意味が重複する類語です。ですからあまり独自の意味を強調しない方がよいでしょう。パウロは言葉を重ねることによって、祈りの多面性を軽んじないようにと配慮しているのです。

 パウロは誰のために祈るように勧めているのでしょうか。「すべての人のために」です。彼は「すべての人のために」と言った後、あたかもそれでは十分ではないとして、「王たちと高い地位にあるすべての人のために」とことばを続けています。「王たちや高い地位にある」人たちとは、皇帝や地方総督たちなどを指しているのでしょう。当時、彼らはクリスチャンたちへの圧迫を強めようとしていた者たちでした。

 パウロはエペソ人への手紙において「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい」(6:18)と勧めていましたが、ここでは祈りの視野を大きくするようにと勧めているのです。

 では、パウロがすべての人のために祈りなさい、と勧めている理由は何でしょうか。まず、一つは現実的な理由からで、「いつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです」(2節)。先日、ミャンマーの国軍によるクーデターが起こり、一夜にして政府が転覆してしまいました。権力者たちがどのような統治をするか、ということは私たちの信仰をはじめ、「落ち着いた生活」に直結します。だから祈る必要があるのです。

 パウロがすべての人のために祈りなさい、と勧めている理由のもう一つは、神が「すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられる」(4節)からです。神がすべての人の救いを望んでおられるということは、神がすべての人が救われることを約束しておられるという意味ではありません(万人救済説)。なぜなら、人が救われるためには人の信仰による応答が必要だからです(参 Ⅱペテロ3:9、使徒17:30)。

 神は、罪によってご自身との断絶関係の中にある人のために、和解の道を備えられました。神はご自身の御子を人としてこの世に遣わされ、その方は「神と人との間の仲介者」となってくださいました。人となられた御子は、神に対しては私たちを代表する人間として、私たちに対しては神を代表する方として、真の仲介者となってくださったのです。また、その方はサタンの支配下にあった罪人のためにご自身を「贖いの代価」(アンティリュトロン 奴隷が売買されるときに支払われる「身代金」を指す)として与えてくださいました(参 マルコ10:45)。

 神が唯一であるなら(参 ローマ3:29,30)、その神が救いのために備えられた仲介者も唯一であり、その方以外による救いはあり得ません(使徒4:12)。ある人たちは「登り行くふもとの道は異なれど、同じ高嶺の月を見るかな」という歌を引用して、どの宗教も結局は同じ神に到達するのだ、と言います。しかし、そうではありません(参 ヨハネ14:6)。

 旧約聖書に登場する預言者ヨナは、神が敵対するアッシリアの人に対しても憐れみ深いことを受け入れることができませんでした(ヨナ4章)。私たちもヨナと同じように自分の狭い視野で、救われるべき人たちを限定しているところがあるのではないでしょうか。神がすべての人の救いを望み、その救いのために御子を人として遣わされ、その人たちのために祈ることを願っておられるなら、私たちは世界宣教のために祈るべきではないでしょうか。

                                   この説教は2021.1.7のものです。